正帝への登極(360年 - 361年)
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「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「正帝への登極(360年 - 361年)」の解説
360年初頭、ユリアヌスの平穏は一変する。コンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからである。要求された人員は、ユリアヌスが指揮する全軍の半数近くに及んだ。この指示を出すようコンスタンティウスに促したのが宮廷内の反ユリアヌス派であった可能性はあるが、当時の情勢を鑑みれば、安定した西方から緊張の高まっている東方へ戦力を移すというのは自然な流れでもあった。359年に北メソポタミアの要衝アミダ(現ディヤルバクル)を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢に出ていたためである。 しかしユリアヌス側からすれば、この命令は苦渋の決断を迫られるものだった。対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していたからである。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって皇帝(正帝)に推戴したのであった。 ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた。 アラマンニ族の王を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサッルスティウス (Sallustius) にガリアを任せ、361年夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した。行軍速度は非常に速く、10月にはシルミウム(現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家のアウレリウス・ウィクトル (Aurelius Victor) と面会している。同月末にはナイスス(現ニシュ)に到った。ユリアヌスをこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦いを中断し、西へと向かう。しかし361年11月3日、西進する道中にキリキア地方で突然の死を迎えた。臨終の床で、唯一の肉親であるユリアヌスを後継者に指名したと伝えられている。ユリアヌスは同月末、ナイススでその報告を受け取った。 12月11日、ユリアヌスは唯一の皇帝としてコンスタンティノポリスに入城する。時を置かずコンスタンティウスの葬儀を執り行い、この皇帝に対し深い尊敬の念を表した。コンスタンティウスに忠誠を誓っていた東方の兵士を抑えるためにも、簒奪者ではなく、正当な後継者として皇帝に即位したことを示す必要があった。実際に遺言があったかは不明だが、コンスタンティウスが死の間際にユリアヌスを後継者に認めたという噂が、葬儀の後に流れた。
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