正帝への登極とは? わかりやすく解説

正帝への登極(360年 - 361年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:14 UTC 版)

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「正帝への登極(360年 - 361年)」の解説

360年初頭ユリアヌス平穏一変するコンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからである。要求され人員は、ユリアヌス指揮する全軍半数近く及んだ。この指示を出すようコンスタンティウス促したのが宮廷内のユリアヌスであった可能性はあるが、当時の情勢鑑みれば、安定した西方から緊張高まっている東方戦力を移すというのは自然な流れでもあった。359年に北メソポタミア要衝アミダ(現ディヤルバクル)を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢出ていたためである。 しかしユリアヌス側からすれば、この命令苦渋の決断迫られるのだった対象となる兵士多くガリア出身で、故郷離れることを望んではおらずユリアヌスも彼らにアルプス山脈越えことはないと以前宣言していたからである。結局コンスタンティウス命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちユリアヌス囲み歓呼をもって皇帝正帝)に推戴したのであったペルシアとの戦い注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告与えるのみで、ただちにはユリアヌス反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウス対す書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスガリア滞在5周年記念した祝祭合わせて当地発行され貨幣には、両者どちらも皇帝刻まれており、実際にユリアヌス皇帝正帝)として振る舞っていた。 アラマンニ族の王を捕らえガリアでの軍事行動区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサッルスティウス (Sallustius) にガリア任せ361年夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍開始した行軍速度非常に速く10月にはシルミウム(現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家のアウレリウス・ウィクトル (Aurelius Victor) と面会している。同月末にはナイスス(現ニシュ)に到ったユリアヌスこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦い中断し西へと向かう。しかし361年11月3日西進する道中キリキア地方突然の死迎えた臨終の床で、唯一の肉親であるユリアヌス後継者指名した伝えられている。ユリアヌス同月末、ナイススでその報告受け取った12月11日ユリアヌス唯一の皇帝としてコンスタンティノポリス入城する。時を置かずコンスタンティウス葬儀執り行い、この皇帝対し深い尊敬の念表したコンスタンティウス忠誠誓っていた東方兵士抑えるためにも、簒奪者ではなく正当な後継者として皇帝即位したことを示す必要があった。実際に遺言あったか不明だが、コンスタンティウスが死の間際ユリアヌス後継者認めたという噂が、葬儀の後に流れた

※この「正帝への登極(360年 - 361年)」の解説は、「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の解説の一部です。
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