横浜駅西口の開発と営業所の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:05 UTC 版)
「相鉄バス」の記事における「横浜駅西口の開発と営業所の変遷」の解説
1960年代の高度経済成長期には、相鉄沿線は東京都心や横浜中心部のベッドタウンとして大きく発展した。この時期に横浜市をはじめ神奈川県内では、急激な人口の増加に対応して大規模団地の建設が進み、相模鉄道も住宅団地を造成・分譲して都市開発を進めた。これに伴い、鉄道駅と団地などの住宅地を結ぶバス路線が多く開設され、乗合バスでは保土ケ谷営業所、綾瀬営業所が新設された。また経済成長の波に乗って観光バス事業も伸び、観光バス営業所や観光案内所も新設されている。 1970年代に入ると、鉄道に比べて早く終わる最終バスの時刻延長を望む声に対し、深夜バスの運行が開始された。また乗合バスの塗色がデザインが複雑で塗装工程が多く、なおかつ退色が早く維持費がかさむなどの欠点があったため、経費削減とイメージアップを図るべく、アイボリーホワイト地に2色の緑の帯の新しいデザインを採用した。その他、高校進学率が高まるにつれて中卒者を採用していたバス車掌の採用者数も少なくなっていたため、車掌を廃止し、誘導員を添乗させ必要に応じて誘導する形となった。 1960年代から1970年代にかけては、相模鉄道が主導する形で横浜駅西口の開発が進められ、1962年には駅ビル「横浜ステーションビル」(のちの「横浜CIAL」)、1964年には「ダイヤモンド地下街」(のち「ザ・ダイヤモンド」に改称後、ジョイナスに統合)、1978年には「相鉄ジョイナス」が全館開業した。横浜駅西口の開発事業に伴い、相模鉄道の本社も新しく建設された相鉄ビルへ移転した。 また1976年には相鉄いずみ野線が開業し、相模鉄道にとっては大きな出来事となった。バス事業においても同1976年に東北・新潟方面へ「帰郷バス」を運行開始し、のちの高速バス事業参入への端緒となった。
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