植民地から連合王国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:39 UTC 版)
「ブラジル独立」の記事における「植民地から連合王国へ」の解説
ブラジルは、当初は副王支配のポルトガル領ブラジル(英語版)であったが、1646年にブラジル公国に格上げとなり、ブラジル公はポルトガル王の推定相続人の爵位の一つとなった。 1809年にポルトガルが「大陸封鎖令」を守らないことに理由にナポレオンのフランス帝国の侵攻をうけると、ポルトガル女王マリア1世、摂政王子ジョアン以下、ポルトガル王室の成員およびポルトガル宮廷を構成する貴族1万5千人が、イギリス艦隊の護衛を受けてブラジルのリオデジャネイロに避難した。1815年にナポレオンが没落し、半島戦争が終結してポルトガルからフランス軍が一掃されたときには、マリア1世は没し、ジョアン6世の治世になっていた。ジョアン6世はブラジルでの生活に満足し、ポルトガルへの帰国には乗り気ではなかった。植民地から宗主国を統治する逆転状態は認められないというポルトガル本国からの要請に対して、ジョアン6世はブラジル公国をポルトガル王国と対等のブラジル王国とした上で、同君連合「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国(以下「連合王国」)」とし、ブラジルからポルトガル海上帝国の統治を継続しようとした。しかし、1820年にポルトガルで自由主義革命が起こったことから、ジョアン6世はポルトガルへの帰国を余儀なくされた。ブラジル人はブラジルの地位向上のため王室のブラジル残留を望んだことから、王太子ペドロを摂政に任命し、リオデジャネイロの摂政府によるブラジル統治によって、ブラガンサ王朝はブラジルを本拠にしている王朝であると擬制した。しかし、自由主義革命を受けて召集されたコルテスでは、ブラジル王国の植民地への格下げが議論されていた。これがブラジル独立の原因となる。
※この「植民地から連合王国へ」の解説は、「ブラジル独立」の解説の一部です。
「植民地から連合王国へ」を含む「ブラジル独立」の記事については、「ブラジル独立」の概要を参照ください。
- 植民地から連合王国へのページへのリンク