梅屋敷史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:08 UTC 版)
文政のころは、蒲田の梅屋敷と亀戸の臥龍梅とは人気を二分していたのが知られており、文化文政ごろに、江戸および近郊で梅屋敷というと、蒲田のほかは亀戸と向島に有名なものがあった。蒲田のあたりは、上からのしめつけが強く、増税につぐ増税で、農民にとってどうしても副業を必要としていたところ、土質が梅に適していたこともあって、農家の庭さきや田畑のまわりに植えた梅がよく育ち、梅干の収穫で農家がうるおった。 農家は梅の花より梅の実だけほしかったのだが、近くの大師河原・川崎大師に行く人、神奈川へ行く人、江の島へ行く江戸の人たちが、この花を賞す惹ようになったという。農家のうち、とくに多くの梅園をもっていたのは助左衛門といい、古来より武州の梅屋敷といわれていたという。二町四方の梅園をもちながら、助左衛門は、他人に花を見せて、何がしかの利益を得ようとはしなかった。文政六年(1823年)に『遊歴雑記』の著者、津田十方庵がここに梅見に出かけたさいも、持参の茶器で煎茶をわかし、助左衛門の家族の者にもお菓子とともに振舞っている。梅見の人たちも、「只畦路を彼方此方と適遙して見行歩のみ」であった。 遊客が多くなれば、便宜を与え、またこれから利益を得ようとする人があらわれる。和中散は大森に二軒、蒲田に一軒あった薬舗であったが、蒲田の和中散が梅園を経営し、梅屋敷として名が知られるようになったのは文政の初め頃のことである。 近くの梅林から老樹ばかりを買いあつめ、3000坪の屋敷に植えつけ、林泉も広くとって、杜若や山吹をあまた植えた。農家は梅の実をとるためで、古木をとくに必要としなかったので、これを探し求めたのである。ほかに二、三百本の梅樹を植え、茶屋をつくって客を待った。梅園のため薬舗のほうも繁昌したという。この梅屋敷は明治維新のときの志士たちや、明治天皇も何回も行幸されている。したがって、明治時代にも多くの利用がなされていた。
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