桂州赴任と北帰行
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その後詔勅が出されて、徐州で3000人を募集し、その兵を現在の広西地域に赴任させるという事になった。唐と吐蕃の衰えを見て、大中13年(859年)に南詔の世隆(中国語版、ベトナム語版)が皇帝に即位して自立していた事に対処するために、匪賊化した徐州の驕兵を活用するという一石二鳥を狙った命令であった。安寧が回復するまでの赴任であり、期限は一応3年ということになっていた。こうして、徐州の驕兵800人が、桂州に赴任した。ところが3年過ぎても交替という話はなく、とうとう6年になってしまった。嘆願しても伸ばされるという事態に驕兵たちは怒り、ついには行動を開始する。 咸通9年(868年)7月、桂州の観察使が転勤し、後任が到着していないという時期を狙って、徐州の驕兵たちは都将の王仲甫を殺害。料糧判官の龐勛を盟主に祭り上げると徐州への帰還を開始したのであった。公的にはこれが龐勛の乱の始まりとされている。 彼らは謀反人ではあったのだけど、3年交替と言っておきながら6年に伸ばした朝廷側にも後ろめたさがあったようで、討伐するような事はせず、通過点の府県で歓待を受けながら彼らは徐州へと近づいていく。この時、匪賊化していた元の仲間を吸収することによって1000人に膨れあがっていた。 徐州は徐州と泗州の観察使の管轄になっており、その徐泗観察使は崔彦曽であった、驕兵と観察使の間で使者の往来があり朝廷としては一応は許す方針ではあったものの、好き勝手に乱暴を働いてきた連中を許していいのかという空気があった。また驕兵側も政府を信用してはいなかった。こうした疑心暗鬼の中で龐勛に一つの野望が生まれたようである(陳舜臣は王智興時代の武寧藩鎮を取り戻そうとしたのではないかと解説している)。「政府は我々を凌遅、一族誅殺の刑の処するそうだ。どうせ死ぬなら戦って死のう。もう一度、富貴を得て昔のように気楽な生活を送ろうではないか」と配下を扇動した。ここにおいて徐州の驕兵たちは反逆を開始することになる。
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