桂州赴任と北帰行とは? わかりやすく解説

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桂州赴任と北帰行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:15 UTC 版)

龐勛の乱」の記事における「桂州赴任と北帰行」の解説

その後詔勅出されて、徐州3000人を募集し、その兵を現在の広西地域赴任させるという事になった。唐と吐蕃衰え見て大中13年859年)に南詔の世隆(中国語版ベトナム語版)が皇帝即位して自立していた事に対処するために、匪賊化した徐州驕兵活用するという一石二鳥狙った命令であった安寧回復するまでの赴任であり、期限は一応3年ということになっていた。こうして、徐州驕兵800人が、桂州赴任した。ところが3年過ぎて交替という話はなく、とうとう6年になってしまった。嘆願して伸ばされるという事態に驕兵たちは怒りついには行動開始する咸通9年868年7月桂州観察使転勤し後任到着していないという時期狙って徐州驕兵たちは都将の王仲甫を殺害。料糧判官の龐勛を盟主祭り上げる徐州への帰還開始したであった公的にはこれが龐勛の乱始まりとされている。 彼らは謀反人ではあったのだけど、3年交替と言っておきながら6年伸ばした朝廷側にも後ろめたさあったようで、討伐するような事はせず、通過点府県歓待を受けながら彼らは徐州へと近づいていく。この時、匪賊化していた元の仲間吸収することによって1000人に膨れあがっていた。 徐州徐州泗州観察使管轄になっており、その徐泗観察使は崔彦曽であった驕兵観察使の間で使者往来があり朝廷としては一応は許す方針ではあったものの、好き勝手に乱暴を働いてきた連中許していいのかという空気があった。また驕兵側も政府信用してはいなかった。こうした疑心暗鬼の中で龐勛に一つ野望生まれたようである(陳舜臣は王智興時代武寧藩鎮取り戻そうとしたのではないか解説している)。「政府は我々を凌遅、一族誅殺の刑の処するそうだ。どうせ死ぬなら戦って死のうもう一度富貴得て昔のように気楽な生活を送ろうではないか」と配下扇動したここにおいて徐州驕兵たちは反逆開始することになる。

※この「桂州赴任と北帰行」の解説は、「龐勛の乱」の解説の一部です。
「桂州赴任と北帰行」を含む「龐勛の乱」の記事については、「龐勛の乱」の概要を参照ください。

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