板橋競馬場の閉鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:16 UTC 版)
1908年 (明治41年)10月の馬券禁止を受けて、全国の競馬関係者は馬券復活運動を起こすが認められず、狂乱の競馬ブームを引き起こした馬券黙許時代は実質2年たらずで終わりになる。日本の競馬は政府の補助金で運営される補助金競馬時代に移る。 1909年 (明治42年)春、政府は東京競馬会(池上)、日本競馬会(目黒)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)、総武競馬会(松戸)の5者を呼び合同を促す。総武競馬会(松戸)のみはこれに従わなかったが、後の4つは1909年 (明治42年)に合同する仮契約を結んだ。合同して新設される東京競馬倶楽部は各競馬会の資産を総額160万円あまりで購入し、政府は東京競馬倶楽部に20年間毎年8万円あまりの補助金を交付することに決めた。 東京競馬会(池上)、日本競馬会(目黒)、京浜競馬倶楽部(川崎)、東京ジョッケー倶楽部(板橋)の4つが合同して出来た東京競馬倶楽部は、1910年 (明治43年)6月、地形や交通の便から目黒競馬場を使用することに決め、板橋競馬場は廃止された。 板橋競馬場の跡地には1913年 (大正2年)巣鴨の愛光舎牧場が移転してきた。板橋競馬場は競馬場から牛の牧場に代わったが、牧場もやがて都市化の波に飲み込まれ、現在の板橋には競馬場だった面影はない。
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