東宝争議を経て新東宝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 18:45 UTC 版)
1年ほどのブランクを経て、東京の東宝映画(現在の東宝)に移籍、1943年(昭和18年)1月3日に公開された滝沢英輔監督の『伊那の勘太郎』に出演している。以降、第二次世界大戦終結後も、東宝に所属した。終戦直後の1945年(昭和20年)12月、東宝の高勢実乗の一座に加わり、吉本興業直営の京都のヤサカ劇場で、舞台実演『花嫁入来』に出演した記録が残っている。 1947年(昭和22年)3月、東宝争議から生まれた新東宝映画製作所(のちの新東宝)に参加、同年5月6日に公開された、同じく新東宝に参加した萩原遼監督の『大江戸の鬼』や、同年6月10日に公開された、同じく斎藤寅次郎監督の『見たり聞いたりためしたり』に出演する。以降、同社が倒産するまで、同社に所属して脇役俳優を続けた。その後は、『特別機動捜査隊』等、映画会社が製作するテレビ映画にも多く出演した。 満69歳を迎えた1979年(昭和54年)、マツダ映画社が製作した『地獄の蟲』(監督山田達雄)に夫婦ともども出演し、戦前以来の映画共演となった。 1984年(昭和59年)6月12日、死去した。満73歳没。夫の結城は、1988年(昭和63年)9月15日、満84歳で死去した。
※この「東宝争議を経て新東宝へ」の解説は、「花岡菊子」の解説の一部です。
「東宝争議を経て新東宝へ」を含む「花岡菊子」の記事については、「花岡菊子」の概要を参照ください。
- 東宝争議を経て新東宝へのページへのリンク