李広の子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 16:00 UTC 版)
李広の末子の李敢は父の死のことで衛青を恨み、酒宴の席で衛青を殴打した。衛青はこれを隠し不問としたが、このことを知った衛青の甥の霍去病は恨みに思い、李敢を狩猟場で射殺した。 李広の長男は李当戸といい父譲りの武人だったが、武帝の側近の韓嫣という寵臣が不遜な態度であったため、李当戸は彼を殴った。その果敢さを見た武帝は彼を有能と評したが、その李当戸は早世した。その遺児が李陵である(詳細は李陵を参照)。 また李敢には李椒という次兄がいたがこれも長兄同様に早世した。さらに李敢は二人の子がいた。男子は李禹と言い、吝嗇で金銭の執着が強かった。女子はまた李禹の姉で、皇太子の劉拠の側室となったので、李禹は戾太子(劉拠)に信頼されてその近侍となった。だが、従兄の李陵が匈奴に帰順すると、彼も李陵の後を追って匈奴に逃げようとしていると告げる者があり、刑死した。 李陵はのち匈奴に降ったため、李陵の妻子と母は、李陵が匈奴に下って匈奴の手助けをしているという情報が入るとまとめて処刑され、彼を擁護した司馬遷も宮刑に処された。李陵が降伏し家族が処刑されて以来、隴西では李氏のことを恥じたという。 なお、五胡十六国時代に西涼を建国した李暠は李広の末裔を称している。そして、唐の詩人李白が李暠の九世の孫であるとされる。
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