朝政を主管
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
360年3月、慕容儁を龍陵に埋葬した。景昭皇帝と諡し、廟号は烈祖とした。 また、慕容恪は慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉・兗州牧・荊州刺史に任じ、梁郡睢陽県の蠡台を鎮守させた。さらに、孫希を安西将軍・并州刺史に、傅顔を護軍将軍に任じ、他の者もそれぞれ官爵を授けた。 当時、前燕で災難が続いていた事を理由に各々の郡より徴兵が行われたが、これに徴兵を受けた領内の民は大いに動揺し、命令を拒んで勝手に郷里に戻ろうとした。その為、鄴以南では道路が大いに混雑し、断絶してしまった。その為、慕容恪は傅顔に騎兵2万を与えて河南の地で観兵を行わせ、淮河まで到達したところで帰還させた。これにより、領内の動揺は静まると共に、その軍威は大いに盛んとなった。 11月、慕容儁の遺言に従い、李績を右僕射に推薦した。だが、慕容暐はかつて皇太子だった頃、李績に私生活の乱れについて苦言を呈された事があり、これに恨みを抱いていた。その為、慕容恪の申し出を認めなかった。慕容恪はその後も幾度も進言を繰り返したが、慕容暐は慕容恪へ「万機の事は叔父(慕容恪)に委ねているが、伯陽(李績の字)一人に関しては、この暐に裁かせてもらう」と取り合わず、遂に章武郡太守に左遷した。やがて李績は憂悶の余り亡くなった。 361年2月、方士の丁進は慕容暐から重用を受けていたが、彼は慕容恪へ媚びを売ろうと思い、慕容評を殺して政権を独占するよう説いた。だが、慕容恪はこれに激怒して丁進を誅殺するよう上奏し、丁進を捕らえて処断した。
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