暴走族引退から六本木事件まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:17 UTC 版)
「柴田大輔」の記事における「暴走族引退から六本木事件まで」の解説
2000年3月に出院。出院早々、柴田の潜伏先を通報した後輩のグループのリーダー格から落とし前として金を要求し、200万円を受け取ることで決着させ、これが柴田にとって最初に得た収入となった。 出院から2か月後、後輩が運転する車に乗っていた柴田はUターン禁止場所でUターンして注意してきた男性に車から降りて殴った傷害事件で逮捕された。さらに、2週間前から3週間前に敵対グループのメンバーをさらって車のトランクに詰めた事件で被害届が出されて、暴行罪と逮捕監禁罪でも容疑となっていた。柴田はMと松嶋が紹介した有力刑事弁護士に依頼し、弁護士の尽力により逮捕から1か月後に執行猶予付きの有罪となって社会に復帰した。 柴田が出院した頃、多田を巡る環境が変化していた。柴田の出院する前の時期に、多田は傷害事件を起こして逮捕され、執行猶予付きの懲役刑となるも、多額の弁護士費用と被害者に対する慰謝料などで経済的に厳しくなった。また多田の片腕的存在である6歳年下の関東連合元メンバーの部下が逮捕され別件の恐喝事件も重なって実刑判決を受け、多田がAVプロダクションに所属していたAV女優に逃げられるなどし、経済的にさらに苦しくなった。多田は関東連合メンバーを家事の召使いのように扱い、AV女優を紹介した際の紹介料は払われず、接待相手からの関東連合へのタクシー代をチョロまかし、仕事上のトラブルや接待相手のデモンストレーションなどで場面に利用するなどし、極端にルーズでだらしないところがある中で経済的に厳しくなったことで求心力が低下していった。関東連合が多田から袂を分かつことを松嶋が提案したことにMら関東連合のメンバーが賛成したことで、柴田を含めた関東連合は多田と絶縁することになった(柴田はその1年後に元の上下関係に戻ることはないものの、連絡を取り合う仲程度には多田との関係を回復した)。 また、関東連合に反発する反関東連合グループのトップである兄弟とも接触し、弟とは喧嘩をしたり、兄とは和解について話し合いをしたりしていた。 一時期、有名経営者のボディガードを務めた後で本格的に起業し、女性をAVにスカウトをする仕事を中心に金を稼いだ。AVスカウトの仕事に嫌気がさして止めた後は、芸能プロダクションを経営することになるが、経営は四苦八苦を重ねていた。起業してから1年後に関東連合のメンバー2人と共に広告に絡むIT会社を立ち上げ、アダルト動画・消費者金融・出会い系サイトの広告を中心に見た事のない金額が振り込まれるが、どんぶり勘定だったため資金が一時的にショートし、当時闇金融をしていたMから1000万円の借金をすることになる。柴田が経営する会社は連結売上で40億円ほどとなり、従業員数が80人ほどの規模になっていた。 2008年3月に関東連合総長のMの面倒見だった人物が反関東連合グループと思われる集団に殺害される西新宿事件が発生し、警察が犯人を特定できない中、関東連合にとって反関東連合グループに報復するまで絶対に引き下がることのできない抗争と考えられるようになり、関東連合の中で暴力団化が急速に進んでいった。 2010年11月の11代目市川海老蔵暴行事件を機に関東連合に対する社会の目が厳しくなり、柴田は1億5000万円以上の個人所得があるのに不動産の審査が通らず、証券会社の口座が止められ、社会から疎外される焦りから事業意欲を失い、一時はハワイに滞在した。
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