景石城とお城山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/30 10:23 UTC 版)
「三角山 (鳥取県)」の記事における「景石城とお城山」の解説
三角山から北へ尾根伝いにゆくと標高325mのピークがあり、戦国時代に景石城があった。このためこの山を「お城山」と呼んでいる。景石城の言及は古くは太平記にみえ、地元の用瀬氏、播磨の赤松氏、山陰の山名氏が争ったと伝わる。 景石城は豊臣秀吉勢による中国攻略の折にも戦場となり、秀吉配下の磯部康氏が守将となったため「磯部城」とも呼ばれる。磯部氏は山名氏の傍系で、同族で毛利方の山名豊国が景石城を攻めると、戦わずに退却した。落城に際して、鎮魂のために用瀬の盆踊り唄が生じたという伝承もある。磯部氏は翌年の鳥取城攻めで功をあげ、景石城と智頭郡の半分に相当する3000石を与えられて約20年間治めた。のちの用瀬宿の発展はこの治世によって育まれたとされている。磯部氏は、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に所領を失った。 城は江戸時代に一国一城令によって破棄されたが、城跡は鳥取市(用瀬町)の史跡となっている。石垣は現存しており、好天時には一の丸跡の石垣から日本海を望む。
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