映画に対する考え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 03:27 UTC 版)
「ロジャー・イーバート」の記事における「映画に対する考え」の解説
イーバートは映画評論に際してのアプローチを「絶対的でなく相対的」と表現している。イーバートは評論対象となる映画を観そうな人々に向かって映画評を書いているが、映画という表現全体に対するその映画の価値に従った考察も常に加えている。『少林サッカー』のレビューで以下の様に述べている。 「友人に「『ヘルボーイ』はどれだけいい映画?」と訊く場合、『ミスティック・リバー』と比べてどれだけいいかを聞いているのではなく、(同じジャンルの)『パニッシャー』と比べてどれだけいいかを訊いていることになる。僕の答えは、1から4の尺度で言うと、『スーパーマン』(1978年版)が4なら『ヘルボーイ』は3で『パニッシャー』は2になるだろう。同様に『アメリカン・ビューティー』が4なら『16歳の合衆国』は2となるだろう。」 —ロジャー・イーバート、rogerebert.com イーバートは、自分のつける星の数は評論自体のコンテクストから切り離してしまうと意味がなくなると強調している。時々彼はつけた星の数とは違う評論を書くこともある。また目指すところをよく達成している映画だとしてたくさん星をつけながら、評論本文では題材が不愉快だとして観ることを勧めない場合もある。 「ある読者からeメールをもらっている。『星3つをつけながら、でもこれは偉大な映画ではないと念押しする時のあなたの文章は退屈だ。あなたはいつも読者に、自分がこの映画よりも頭がいいと強調して、自分をかばおうとしている。』いい点を突いている。もちろん僕はほとんどの映画より頭がいいが、それは君も同じだ。だからといって頭の良さは映画を楽しむ邪魔になるわけではない。彼が指摘していない僕のもう一つの傾向は、星1つをつけながら実際はそれよりいいかもよと示唆してしまうことだ。」 —ロジャー・イーバート、rogerebert.comにおける『氷の微笑2』のレビュー ポーリン・ケール(Pauline Kael)同様、イーバートは映画に対して「不健全な政治的主張がある」として批判することもある。権威・権力をバックにした暴力を描く映画に対する嫌悪も強い。特に『ダーティハリー』など、法的手続きを無視して行動する1970年代の警官映画や法廷映画のいくつかを「ファシスト」とすら表現したこともある。またイーバートは偽善的な主張をする映画、たとえばどぎつく扇情的な内容ながら、アート映画だからと批判を避けようとするような映画(彼によれば『ブルーベルベット』や『愛の嵐』など)にも懐疑的な評を書くこともある。 イーバートの評は、例えば1988年の『ダイ・ハード』に書いた酷評のように映画界や観客全体の評価とは衝突することが多い。イーバートは特にひどいと思った映画にはあざけるような皮肉を書くが、それでも直接的にけなすことがある。1994年のロブ・ライナー監督の『ノース 小さな旅人』に書いた評の一節は、この監督のキャリアを評価してきただけに内容が激烈となり今でも有名である。映画に星0個の評価を下した上で、以下の様に述べた。 「僕はこの映画が嫌いだ。この映画が大大大大大嫌いだ。大嫌いだ。この映画のにやついた、馬鹿馬鹿しい、空っぽの、観客を傷つける、全ての場面が嫌いだ。みんながこれを気に入るだろうと思うその感性が嫌いだ。この映画でみんな楽しめるだろうと思う、観客を馬鹿にした信念が透けて見えるのが嫌いだ。」 —ロジャー・イーバート、rogerebert.com イーバートのレビューは乾いたウィットが特徴であり、レビューを物語、ポエム、歌、脚本、想像上の会話などの形式で書くことも多い。また映画評論というもののコンセプトに深く分け入ったエッセイや論文は高く評価されている。 イーバートはMPAA(アメリカ映画業協会)の行うレイティング・システムが恣意的に運用されているとしばしば批判している。たとえば子供に見せるべき映画がPG-13にされたり、本当にショッキングな映画がX指定を潜り抜ける小細工を使ってR指定で上映されるなどに対し自身の映画評で述べている。また郊外や地方の大型シネマ・コンプレックスが、その地の実情を無視して本部から送られてくるデータだけでハリウッドの超大作だけをブッキングし、インディペンデント映画や外国映画がアメリカのほとんどの場所で観られないことも批判している。
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