修道学院
明信館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 04:31 UTC 版)
明治23年(1890年)、浦和に明信館道場を設立し、急速に支部を増やす。明治26年(1893年)、皇太子・嘉仁親王が大宮公園に行啓した際、佐三郎は門人を招集し剣道を台覧に供した。 明治28年(1895年)10月26日から28日まで平安神宮で開催された大日本武徳会主催の第1回武徳祭大演武会に出場し、京都府の井沢守正、徳島県の高木義征と対戦し勝利した。翌年の第2回大会では福岡県の浅野一摩、滋賀県の小関教政に勝ち、当時の剣道界の最高表彰である「精錬証」を授与された。この年、精錬証を授与された人数は出場者460名のうちわずか15名であった。同年、警部に昇任し、日本体育会(現法人日本体育大学の前身)委員も委嘱された。 明治32年(1899年)、実業家・平沼専蔵の後援により、一家で東京に移住。明治35年(1902年)5月、大日本武徳祭大演武会の大家43名の高点試合で優勝し、日本刀と賞与を授与された。同年10月、東京府麹町区飯田町(九段坂)に明信館本部道場を設立。このとき読売新聞に「其門に遊ぶ子弟無慮四千余人、道場を起こすこと三十九の多きに及び…」と報道された。39支部というのは、明治時代の剣道道場の支部数としては異例の多さであった。佐三郎の半生は村松梢風により『秩父水滸伝』として小説化され、その後映画にもなり、この映画を見た多くの若者が明信館に入門した。館員数は6千余人、警察官や学生を加えると1万人を超えた。 明治36年(1903年)4月20日、大阪府で催された第5回勧業博覧会の剣道大会で、有名剣士100余名の中から佐三郎が最優秀者に選ばれ、皇太子から金製記念章と銀製面金絹糸刺し撃剣道具を授与された。明治38年(1905年)4月、剣道教士に昇進する。
※この「明信館」の解説は、「高野佐三郎」の解説の一部です。
「明信館」を含む「高野佐三郎」の記事については、「高野佐三郎」の概要を参照ください。
- 明信館のページへのリンク