旧聖護寺の遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 18:53 UTC 版)
歴史にも記したように、大智が20年居住したのち、すぐに菊池氏も衰退したために、聖護寺の正確な場所、また、いつまで聖護寺やその後継寺院があったのかなどは一切不明である。 現代の聖護寺が立つ場所は、大智時代の聖護寺の場所とは異なるとされる。しかし、村上素道が入山した際には、この地に大きな建物の礎石が並んでおり、この地を聖護寺跡であるとして仮本堂を建立している。今日の本堂は、その礎石をそのまま利用して建っているといわれる。 また少し離れた場所には、五輪塔が多数散在する場所があり、また別な場所には僧侶の墓石である卵塔墓と五輪塔が並ぶ場所があり、特に後者は地元班蛇口では「比丘尼の森」と呼ばれ悲劇と共に言い伝えられ、双方の地ともに畑にしてはならないという言い伝えが伝わっている。以前はこんもりと樹木が生い茂った場所であったが、大智六百回忌の法要に関連して整備を行った。
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