新日本製鐵の誕生
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1970年(昭和45年)、富士製鐵と八幡製鐵の合併が成立、新日本製鐵が設立され、永野は会長に就任した。 「戦後最大級」とされたこの合併においては、永野はいずれこの日が来るとの認識から、早い時期から根回し工作を画策した。合併は産業界や世論の支持が必要だった。事あるごとにOBたちに合併の必要性を訴え、また通産大臣の三木武夫らにも近づいて準備を進めた。当時国内には高炉メーカーが6社あったが、国際競争力をつけるために東西二社に集約して、能率経営・能率生産を行った方がよいと考えた永野は、世間の反応を見るため「東西製鉄二社合同論」をぶち上げた。すると中山素平や今里廣記が「面白いじゃないか」と賛成してくれ、「これなら合併はいける」と踏んだ。 「鉄は国家なり」と当時いわれたように、鉄は国の産業として重要視され、国際的な競争力も高い輸出の稼ぎ頭だった。東大卒の成績1番が八幡、2番が富士に入るといわれた時代、当時の国家予算7兆円の7分の1にあたる日本初の売上高1兆円企業の誕生は、国家的な議論として広がった。 新会社の社長には八幡製鐵社長・稲山嘉寛が就任した。会長の永野も代表権を持ち、旧2社の勢力抗争では争いを好まない性格の稲山を翻弄、ポストの割り振りは公平でも重要ポストはほとんど富士系が握るなど、実質的な権力を握った。富士製鐵と八幡製鐵では、支配人だった人が課長くらいにしかなれないといわれるほど格が違っていたが、カエルがヘビを飲み込んだともいわれた。 八幡出身の副社長・藤井丙午とは、政界への献金窓口などを巡って鋭く対立した。1973年(昭和48年)藤井の政界転身と同時に、永野は腹心の武田豊の副社長昇格と引き換えに会長を退き、取締役相談役名誉会長となった。 合併の際に独禁法の違反品目の関係から、釜石製鐵所の切り捨て問題が起きた。永野は思い入れのある富士系の「釜石製鐵所を分離するぐらいなら八幡との合併はやめる」と断言。その代わり、鉄道用レールに新規参入する日本鋼管に、釜石のレール製造設備を譲渡するなどで釜石分離を阻止した。
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