敏雄の死後、晩年とは? わかりやすく解説

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敏雄の死後、晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:16 UTC 版)

島尾ミホ」の記事における「敏雄の死後、晩年」の解説

1987年8月ミホ連載まとめて中央公論新社から短編集祭り裏』を出版するその後は敏雄の死後発刊され書籍研究所解説寄せたり、『「死の棘」日記』として敏雄の日記編集公開にも協力した1999年2002年連載後、2005年書籍化)。梯久美子は、『「死の棘」日記』で、ミホ言説やXに関する記述が度々削除編集されていることを指摘し、「絶対的な夫婦愛は、ミホ作り上げようとした神話だった」と述べている。ミホはこれに並行して、「『死の棘』の妻の場合」と題した文章執筆しているが、これは結局未完未発表となった生前発表は、敏雄の死後3年書いた震洋搭乗』がまずあり、敏雄との結婚のために闇船を探した体験を基にした『新潮平成18年9月号の「御跡慕いて—嵐の海へ」が最後となった。 敏雄による私小説死の棘』は、1990年小栗康平監督松坂慶子岸部一徳主演映画化されカンヌ国際映画祭グランプリ受賞するなど高い評価得た1992年にはマヤ呼び寄せて奄美大島名瀬へ再移住した毎年8月13日になると、戦時中に敏雄の出撃を見送るため夜を明かした呑之浦を訪れたという。 1999年ミホは娘マヤと共にアレクサンドル・ソクーロフ監督映画ドルチェ 優しく』に主演した。この作品第57回ヴェネツィア国際映画祭招待作品となった。この作品にも出演したマヤは、2002年8月3日52歳亡くなった2007年3月25日脳内出血のため奄美市自宅死去独居のため、孫のしまおまほ文筆家・漫画家)によって発見されたのは3月27日午前10時であった享年89(満87歳没)。墓はミホ希望により、島尾敏雄文学記念碑の奥にあり、分骨された敏雄の遺骨のほか、マヤと共に納められている。

※この「敏雄の死後、晩年」の解説は、「島尾ミホ」の解説の一部です。
「敏雄の死後、晩年」を含む「島尾ミホ」の記事については、「島尾ミホ」の概要を参照ください。

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