敏雄の死後、晩年
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1987年8月、ミホは連載をまとめて中央公論新社から短編集『祭り裏』を出版する。その後は敏雄の死後発刊された書籍や研究所に解説を寄せたり、『「死の棘」日記』として敏雄の日記の編集・公開にも協力した(1999年と2002年に連載後、2005年に書籍化)。梯久美子は、『「死の棘」日記』で、ミホの言説やXに関する記述が度々削除・編集されていることを指摘し、「絶対的な夫婦愛は、ミホが作り上げようとした神話だった」と述べている。ミホはこれに並行して、「『死の棘』の妻の場合」と題した文章を執筆しているが、これは結局未完・未発表となった。生前の発表は、敏雄の死後3年で書いた『震洋搭乗』がまずあり、敏雄との結婚のために闇船を探した体験を基にした『新潮』平成18年9月号の「御跡慕いて—嵐の海へ」が最後となった。 敏雄による私小説『死の棘』は、1990年に小栗康平監督、松坂慶子・岸部一徳主演で映画化され、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞するなど高い評価を得た。1992年にはマヤを呼び寄せて奄美大島・名瀬へ再移住した。毎年8月13日になると、戦時中に敏雄の出撃を見送るため夜を明かした呑之浦を訪れたという。 1999年、ミホは娘マヤと共に、アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画『ドルチェ 優しく』に主演した。この作品は第57回ヴェネツィア国際映画祭の招待作品となった。この作品にも出演したマヤは、2002年8月3日に52歳で亡くなった。 2007年3月25日、脳内出血のため奄美市の自宅で死去。独居のため、孫のしまおまほ(文筆家・漫画家)によって発見されたのは3月27日午前10時頃であった。享年89(満87歳没)。墓はミホの希望により、島尾敏雄文学記念碑の奥にあり、分骨された敏雄の遺骨のほか、マヤと共に納められている。
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