政治上の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:14 UTC 版)
「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「政治上の改革」の解説
コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」でオリエンス道長官のサルティウス・セクンドゥス (Salutius Secundus) を代理人に選んだ。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている。 カルケドンで裁判が開かれる中、ユリアヌスはコンスタンティノポリスで宮廷の改革に取り組んだ。ディオクレティアヌス以降の帝政後期においては、宮廷ではペルシアをモデルとした新たな様式が導入され、その機能が肥大化していた。禁欲的な新たな皇帝はこれを一挙に縮減した。キリスト教徒の官僚や教会史家の中には、この改革の目的がキリスト教徒の放逐にあると考える者もいたが、実際にはそうではなかった。宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである。 宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、元老院の権威を復興させようという努力もした。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、ヘレニズムとの調和が必要だと信じていた。 つまりユリアヌスの改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだったとされている。これについては、リバニオスも同様の説明をしている。
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