挑戦手合六番勝負
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 20:04 UTC 版)
1945年には世情は悪化し、主催の毎日新聞の囲碁欄も覚束ない状態となっており、さらに5月25、26の空襲で当時溜池にあった日本棋院は全焼したため、対局場が無くなり、長老の瀬越憲作が疎開先の郷里広島で対局場を探し、広島市内の日本棋院広島支部長藤井順一宅で行われることになった。当初は6月に行う予定だったが、交通事情により岩本が広島まで行けず、7月に第1局が行われた。しかし続く第2局を市内で行うことを警察部長から禁止され、五日市の中国石炭社長津脇勘市宅となっていた社員寮で8月4-6日に行われた。この第2局三日目に市内に原爆が投下され、爆風で対局室内も破壊されたが、対局を続行して終了。この結果は橋本門下の三輪芳郎が2週間後に東京に来て伝え、両対局者が無事であることが知らされた。しかし第3局以降を広島で行うことは不可能となり、無期延期とされる。終戦後11月10-17日に千葉県野田市の野田醤油社長茂木房五郎宅で第3、4局を打ち、次いで目黒の橋元文治宅で11月19-24日に第5、6局を打った。この結果3勝3敗の打ち分けとなり、規定により本因坊位は日本棋院預かりとなる。 翌1946年になって、決戦三番勝負を行うこととなり、コミ無しで2局打ち、打ち分けの場合はコミ4目半で第3局を行うということになった(持時間各12時間)。第1局は7月に広島県蓮教寺での原爆被災者追悼会で1手ずつ打ち、続きを8月に高野山総寺院で行った。同じ総寺院で第2局も行われ、岩本が連勝し、第3期本因坊に就いた。また高野山決戦での設営には毎日新聞社井上靖があたっていた。この三番勝負が、戦後になって新聞に棋譜が載った最初でもあった。
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