按司、城の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)
「グスク時代」も参照 グスク時代の初期に入り、奄美群島でも農耕社会と按司の台頭、グスクの構築が始まる。奄美群島でも「按司」(領主層)や「グスク」(城、城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。 11世紀頃に構築が始まった奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。 交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。 また、沖縄貝塚文化の土器編年上、弥生時代中期から貝塚時代後期までは一貫して奄美群島(北部・南部)と沖縄諸島との間で異なる様式の土器が出土していたところ、貝塚時代最晩期(グスク時代最初期)には沖縄諸島で良く出土するフェンサ下層式土器が奄美南部(徳之島以南)でも出土している。 このグスク時代初期を特徴づける土器は、徳之島の川嶺辻遺跡や沖永良部島の揚殿遺跡などで出土しているが、後述のカムィ焼・肥前産滑石製石鍋勢力に先行する時期であり、この時期の奄美南部(徳之島以南)と沖縄諸島との按司勢力の関わりを示唆する。
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