戸沢家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 05:20 UTC 版)
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで常陸を支配していた佐竹義宣は、徳川家康に積極的に協力しなかったとして出羽久保田藩に移封された。 慶長7年(1602年)9月、戸沢政盛が4万石で松岡に入り、常陸松岡藩を立藩したが、石高の上ではむしろ5000石の減封であった。入部当初、政盛は居城を茨城郡の小川城(茨城県東茨城郡小川町)としていたが、慶長11年(1606年)に多賀郡下手綱の竜子山城に移し、ここを改修して松岡城と改めて移った。戸沢家は従来の角館から常陸に移ったため、藩政の中枢である家老や年寄は従来の老臣が占めたが、直接民政に当たる地方の役職には常陸で新たに召し抱えた家臣を採用して、石高制への転換を図った。これら常陸で登用した新規家臣は後に戸沢家が新庄に移った際に譜代の臣として藩政の要職に就いている。また政盛は徳川家譜代の重臣鳥居忠政から妹を正室に迎え、継嗣にも忠政の次男戸沢定盛を迎えるなどして御家の安泰を図っている。 政盛は元和8年(1622年)9月に出羽国新庄へ移され、一時は廃藩となった。そして所領4万石のうち、3万石と松岡城は水戸藩へ、1万石は棚倉藩へそれぞれ編入された。
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