戦争への参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:43 UTC 版)
「アメリカ独立戦争におけるスペイン」の記事における「戦争への参入」の解説
スペインの参戦は、フランスの場合と同様に、1777年10月17日にジョン・バーゴイン将軍のイギリス軍大部隊が、大陸軍とニューイングランド民兵隊の混成軍に降伏したサラトガの戦いの事実上直接の結果だった。この戦闘は2つの大きな結果を生んだ。1つはサラトガで7,000名のイギリス軍が一挙に戦局から消し去られるという軍隊の損失だった。イギリスは既に植民地にいる軍隊が足りなくなっており、この惨劇により地球上に配置する兵力の層がさらに薄くなってしまった。2つ目はサラトガの結果によって反乱側植民地人が以前は持っていなかった自信を新たにしたことだった。フランスは以前から戦争に干渉する考えを弄んでいたが、この時点まで新生間もないアメリカ合衆国を適切な同盟相手とは見ていなかった。サラトガによってこの事態が一遍に変わり、1778年2月6日にアメリカ政府と同盟条約を締結することで正式に戦争に参入した。 フランスの戦略は大望のあるものであり、最終的な目標としてイギリス本国への大規模侵略まで描いていた。フランスはアメリカ合衆国に援助の手を差し伸べる一方でイギリスのあちこちに散らばる植民地の占領も目指した。フランスは2年の内にイギリスを圧倒的に打ち負かし、七年戦争で大量に失った領土を取り返せるものと考えていた。 フランスの戦略立案家達にとってこれを達成するためには、特にイギリスが圧倒していた海軍の分野でフランスとスペインの戦力を合わせる必要があることが直ぐに明らかになった。フランスは古くからの相互の敵国に対する同盟にスペインが加わるよう圧力を掛け始めた。スペインは初めのうち躊躇った。1777年、新しい宰相のフロリダブランカ伯爵ホセ・モニーノ・レドンドが権力を掌握し、イギリスの自由な伝統の多くを取り込む改革計画を持っていた。 フランスは1713年にブルボン家がスペインの王室を支配するようになって以来保たれていた盟約であるブルボン家族同盟の原則を再開することを当てにした。この同盟はオーストリア継承戦争や七年戦争で用いられたものと似ており、国益に付いての感覚と同じくらい血筋の真の絆を重視するものだった。 1779年6月までにイギリス側は特に退潮になっているように見えた。スペインは遂にフランスの圧力に屈して参戦し、アランヘス条約を結んだ。ただし、新しいアメリカ合衆国の連合を全体的に認めていなかったので、実質的にその同盟国になることはなかった。
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