戦いの記念碑
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「グロースゲルシェンの戦い」の記事における「戦いの記念碑」の解説
シャルンホルスト記念碑:グロースゲルシェンのこの記念碑は、戦いの100周年の祝典で建てられた。彫刻家はシュコーパウ(英語版)出身のパウル・ユッコフである。記念碑広場の二つの石造ベンチにはシャルンホルストのモットー、「目標は識別され、力は込められた」(Ziel erkannt – Kräfte gespannt)が彫り込まれている。 グロースゲルシェンのシンケル聖龕(ドイツ語版):戦没者を記念してカール・フリードリヒ・シンケルが設計した鋳鉄製の碑は、1813年と1815年の戦場に建つ七つの同じような記念碑の一つである。碑文は「感謝を込めて国王と祖国は戦没した英雄に表敬す。彼らは平和の中に安らぐ。グロースゲルシェン、1813年5月2日」。老朽化した元の碑はグロースゲルシェンの南方およそ3kmに位置するグロースゲルシェンの君主の丘(ドイツ語版)にあったが、現在の同地には碑文が刻まれた土台が残るのみである。現在のレプリカは1985年、シャルンホルスト記念碑の近くに設置された。 ヘッセン=ホンブルク公子レオポルトの記念碑(ドイツ語版):レオポルトの戦没から2年後、妹のマリアンネが設立させた記念碑もシンケルが設計した。これは1974年、老朽化に起因する内部からの腐朽によって撤去を余儀なくされた。新しい複製品が1999年5月2日に除幕されている。 ベルガーの墓:ラーナ村にある、ブレスラウ出身のプロイセン軍志願猟兵、クリスティアン・ゴットリープ・ベルガー(ドイツ語版)の墓の上には記念の石碑が立っている。彼は享年26才で額に銃弾を受け、戦没した。 ネイ元帥館:グロースゲルシェンの一地区、カーヤ村のこの館でネイ元帥は1813年5月1日から5月2日にかけての夜を過ごした。本営でもあったこの館には、小さな博物館がある。 リープクネヒトの墓:クラインゲルシェンの墓地にはナポレオンに従って戦い、18才になったばかりで戦没したヘッセン大公国軍近衛連隊の少尉、フランツ・ヴィルヘルム・リープクネヒトの墓がある。 シュターズィーデルの記念碑:グロースゲルシェンとシュターズィーデルを結ぶ道の傍には記念碑があり、「1813年5月1日と5月2日のグロースゲルシェンの戦いにおける、プロイセン=ロシア連合軍の戦没した英雄に感謝して記念す」という碑文が刻まれている。 パリのエトワール凱旋門の最上部には30の盾が並んでおり、その一つには「LUTZEN」と銘が刻まれている(写真の右から三つ目)。 グライヴィッツ市立公園の眠れる獅子像(ドイツ語版)。「1813年から1814年にかけてグライヴィッツの野戦病院にて、グロースゲルシェンとバウツェンの戦い(英語版)で受けた傷によって亡くなり、独立と正義を巡る彼らの豪勇果敢な戦いの舞台から遠く離れ、ここにこの聖なる憩いの場を見出したプロイセンの勇敢な息子たちを記念して。グライヴィッツ、1849年10月15日。」という碑文は1945年、除去された。それから間もなく、記念碑は解体された。 戦いの記念碑 シンケルのピラミッド。 ヘッセン=ホンブルク記念碑。 ベルガーの墓石。 シャルンホルスト記念碑。 シュターズィーデルの記念碑。
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