忠義を貫く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:14 UTC 版)
徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。また、このとき関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。 建安4年(199年)、劉備は献帝から密命を受けた董承と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。このとき、張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は下邳の守備を任され太守の事務を代行した。 建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると、関羽は一時的に曹操に降り賓客として遇された。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻上表して、漢寿 亭侯に封じた。 曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長く留まる心算は無いと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることは無いことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去る心算であることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。 顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。
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