形式主義文学論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)
1928年(昭和3年)1月、『新潮』に評論「新感覚派とコンミニズム文学」を発表、2月には『創作月刊』に「文学的唯物論について」を発表し、形式主義文学論争が起こった。横光のライバルは思想的にはマルクス主義であり、表現形式的には映画であったといわれ、マルクス主義文学が好む題材を多く用い、横光は「マルキシズムとの格闘時代」と振り返っている。「ブルジョワ作家は抹殺しろ」と横光は叫ばれた。横光は19歳の時から31歳の時までマルクスに惹かれていたが芸術上相容れないものと確信していた。なお、前年の1927年には芥川龍之介と谷崎潤一郎が「小説の筋」論争をしていた。 1928年3月にはポール・ヴァレリーの『ダヴィンチ方法論序説』に感激し、「虚無とは自身と客観との比重を物理的に認識した境遇に於ける自意識だ。この自意識の現れは、ただ今迄の文学に於いては、ポール・バレリーに現れていただけに過ぎぬ」と藤沢桓夫に宛てて書いた。
※この「形式主義文学論争」の解説は、「横光利一」の解説の一部です。
「形式主義文学論争」を含む「横光利一」の記事については、「横光利一」の概要を参照ください。
- 形式主義文学論争のページへのリンク