弘安の役への出征とは? わかりやすく解説

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弘安の役への出征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 00:27 UTC 版)

阿塔海」の記事における「弘安の役への出征」の解説

至元18年1281年)、元寇弘安の役では、高麗軍遼陽行省方面女直屯田軍、蒙古軍などからなる東路軍との対として、旧南宋諸軍からなる江南軍総勢10万といわれる規模組織され江南軍総司令官であるとしてジャライル部出身阿剌罕(アラカン)が任命された(東路軍編成は、文永の役同じく元帥忻都(ヒンドゥ。文永の役では直前更迭され忽敦派遣された)。右副元帥洪茶丘、左副元帥金方慶蒙古人女直人などの漢人高麗人からなる4兵船900艘。江南軍編成は、都元帥阿剌罕、右副元帥アタカイ、左副元帥范文虎とする旧南宋10万から成り兵船3,500であった。 しかし出発直前になってアラカン急病倒れ程なく亡くなったため、アタカイ急遽征東行省丞相、都元帥として総司令官務めることになったこのため江南軍同年6月中旬壱岐沖で東路軍合流する手はずであったが、アラカンからアタカイへの引継ぎ作業などで手間取ったためか、江南軍船団慶元寧波)を出発したのは大幅に遅れて6月18日7月5日であったアタカイのもとには、事前に鷹島の上陸が有利であるという情報があったため、東路軍鷹島沖での合流促す先遣隊派遣し7月上旬平戸島沖に東路軍江南軍合流し鷹島の上陸を敢行したものの、松浦党近海から加勢し島津長久らの軍勢による迎撃された[要出典]海上船団松浦党はこれに対し果敢に攻撃仕掛けたため、東路軍兵船同士を鎖や板を渡し兵員移動しやすくして襲撃への対処行ったあわせて東路江南両軍幾度か鷹島の上作戦行ったが、ことごとく失敗した。[要出典] 至元18年弘安4年7月30日1281年8月15日夜半暴風雨見舞われた。翌閏月8月1日8月16日)にかけて京都でも暴風雨があったため、時期的に台風であったとも考えられている。この暴風によって東路江南両軍艦船大部分転覆座礁するなどの甚大な被害に見回れ東路軍忻都洪茶丘金方慶江南軍アタカイ范文虎らの指揮官たちは軍の撤退余儀無くされた。海上五日荒れ20日から凪ぎはじめると日本武士団による掃討戦はじまった。特にアタカイ率い江南軍被害著しく、『元史日本伝に「十万の衆、還ることの得る者、三人のみ」とやや誇張的な表現があるものの、江南軍兵員大半溺死する日本側に掃討され、あるいは捕虜となった

※この「弘安の役への出征」の解説は、「阿塔海」の解説の一部です。
「弘安の役への出征」を含む「阿塔海」の記事については、「阿塔海」の概要を参照ください。

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