ひろつ‐かずお〔‐かずを〕【広津和郎】
広津和郎
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広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。日本芸術院会員。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
注釈
- ^ 祖父・広津藍渓は久留米有馬家に仕えた儒学者、父・弘信は長崎で医業を営む傍ら征韓論者として使節に参加したり外務省嘱託となった。
- ^ 祖父・蒲池鎮克は西国郡代を務めた大身旗本。父・蒲池鎮厚は旧旗本。
- ^ 近くの横寺町に尾崎紅葉の家があったために、紅葉をはじめ泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉・川上眉山など硯友社の同人がしばしば訪ねてきた。
- ^ この頃、父・広津柳浪の元に舟木重雄らが訪れるようになり雑誌『にひしお』を発刊した。
- ^ 早大文学部長だった島村抱月の美学講義や片上伸(片上天弦)の英文学講義などを受けた。また文芸協会解散の頃には早大教授だった坪内逍遥邸でジョージ・バーナード・ショー研究の講義を受けた。
- ^ 社会部長の永代静雄は田山花袋の「蒲団」の女主人公の恋人のモデルとなった人物で、光用穆の友人でもあった。
- ^ 上京し興信所に就職し一時和郎とともに西片町の宇野浩二の家に居候したが、その後神山ふくのいる永田町の下宿にころがりこんで和郎の着物などを質入してしまった。そのため和郎の召集解除のときは兄ではなく神山ふくが着替えの着物を用意して迎えに来た。
- ^ 好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描き、新しい時代を予感させる作品となった。
- ^ 片岡鉄兵の頼みで本人と知らずに共産党幹部の田中清玄・佐野博に宿を提供したり、街頭連絡中の間宮茂輔が訪ねて来たりした。
- ^ 偶然湯本館を訪れていた三好達治が翻訳に力を貸してくれることになった。また梶井基次郎も訪れてきて、普段は和郎の手許にはいない長男・賢樹と川遊びをしてくれた。
- ^ 婦人公論の雑誌広告の内容とそれに対する菊池寛の投稿原稿を中央公論社が勝手に改題したことが紛争の原因であった。『続年月のあしおと』参照。
- ^ プロレタリア文学の流れには直接加わらなかったが、〈同伴者作家〉と呼ばれたように、社会の現実を見つめる作品を書いた。連載中に内務省と警視庁から「触れてはならない事項」十五か条(左翼運動の具体的な方法を書いてはいけない、留置場の光景を書いてはいけない、取調べの模様を書いてはいけない、作全体の上に左翼に対する同情があってはいけない等々)が指示されたという。
- ^ 奈良滞在中に妻・はまから「コトバヲツツシンデクダサイ ハマ」という文学報国会での舌禍を戒める電報が届いた。
- ^ 病気療養中でこの裁判に関われなかった宇野浩二から次のような電報が届いた。「ヒロツクンイマワユウコトバナシ/オメデトウヨロコンデバンザイ/ゴケンショウヲイノル/ウノコウジ」
出典
- ^ 宇野浩二『青春期』参照。
- ^ 当時、八重山館グループと久米家グループの間で、総当たり戦の将棋対決があった。春原千秋『将棋を愛した文豪たち』(1994年、メデイカルカルチュア社。「野口雨情」の章)
- ^ a b c d 『昭和・遠い日・近いひと』澤地久枝、文芸春秋 1997、「広津和郎 男としての誠実」pp.177-216
- ^ 「自分はそんなに多くの女を相手にしていたんですね」“昭和のドンファン”福田蘭童結婚詐欺事件とは小池新、文春オンライン、2020/10/11
- ^ 東郷青児、福田蘭童らも留置『東京朝日新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p614-615 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『続・年月のあしおと』参照。
- ^ 盲目のジェロニモ日本映画情報システム
- ^ 女性の力日活
- ^ 若い花日活
- ^ a b c 広津和郎東宝
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