ひらた‐かねたね【平田銕胤】
ひらたかねたね 【平田銕胤】
平田銕胤
平田鐵胤
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 08:48 UTC 版)
平田 銕胤(ひらた かねたね)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の国学者[1]。「鐵胤」「鉄胤」とも書く。出羽国久保田藩士[1]。幼名篤実(あつさね)[2]、のちに篤眞(あつま)、通称は内蔵介(くらのすけ)、号は伊吹舎(いぶきのや)・大角(だいかく)[3]。平田篤胤に師事し、その養子となった[1]。
注釈
- ^ 篤胤が気吹屋として最初に入門の弟子を迎えたのは文化元年で、以後、陸続と門人は増えていった。特に文化から文政年間にかけては、出羽国の佐藤信淵、駿府の柴崎直古・新庄道雄、山城国の六人部是香、上野国の生田万、下総国の宮負定雄・宮内嘉長・芦澤洞栄などの俊英が集まった。
- ^ 内藤正義は具足の無用性を主張するとともに、西洋式鉄砲の採用と精製火薬の製造を主張し、勝海舟は洋式軍制の採用と軍事学校の建設、都府防衛を強化したうえでの海軍創設、海軍建設資金調達のための対清国・朝鮮・ロシア貿易の振興などの構想を示した。宮地(1994)p.240
- ^ そのなかには『夜明け前』の著者島崎藤村の父で信濃国馬籠宿の名主島崎正樹も加わっていた。宮地『幕末維新変革史・下』(2012)p.104
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 第2版, 朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “平田銕胤とは”. コトバンク. 2022年3月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『秋田人名大事典 第2版』「平田銕胤」(2000)pp.475-476
- ^ a b c 伊東(1979)p.247
- ^ a b c d e f g h 田原(1990)p.1061
- ^ a b 『ビジュアル幕末1000人』「平田銕胤」(2009)p.329
- ^ 笹尾(2014)pp.19-22
- ^ 吉田麻子「研究発表 国学者平田篤胤の著書とその広がり」『国際日本文学研究集会会議録』第28号、国文学研究資料館、2005年3月、77-95頁、doi:10.24619/00002693、ISSN 0387-7280、NAID 120006668753。
- ^ 宮地(1994)pp.239-240
- ^ a b 宮地(1994)pp.240-242
- ^ a b 宮地『幕末維新変革史・上』(2012)pp.242-245
- ^ a b c d e f g 宮地(1994)pp.246-247
- ^ a b 今村(1969)pp.144-147
- ^ 宮地『幕末維新変革史・下』(2012)p.104
- ^ a b 宮地(1994)pp.247-252
- ^ a b 宮地(1994)p.254
- ^ a b 畑中(2015)pp.161-168
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51
- ^ a b c d e 宮地(1994)pp.237-238
- ^ a b 宮地(1994)pp.235-236
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