少年や六十年後の春の如し
作 者 | |
季 語 | 春 |
季 節 | 春 |
出 典 | |
前 書 | |
評 言 | 一読してすぐ解るわけではない。が、この措辞に調べに、深いものを直感的に感じその魅力から離れられなくなる。「少年」と「六十年後の春」、そこに響き合うものは何か。耕衣は、常識のちょっと破れた部分が思考の新しいキイポイントだと言う。六十年前私はまさに少年だった。そして六十年後の今は老人だ。少年と老人の間にあるものは「六十年」という「時」なのである。少年+六十年=老人。それはまた少年=老人-六十年でもある。だから、少年もやがて老人になるが、塵芥にまみれた六十年を差し引けば、老人も少年になり得るというメッセージであろうか。老いてなお若々しく、前向きに生きた耕衣を思うと、素直に納得できるのである。掲句収録の「蘭位」には発想を共にした思われる「老斑を夏日晒しの童かな」の作も見られる。 耕衣は「俳句は奇襲の文芸」「俳句精神の要処は諧謔」「諧謔の極致は卑俗高邁な茶化し」など魅力ある言葉を残している。阪神・淡路大震災に逢った時、トイレの中で銅製の器を叩き鳴らしたのは有名な話である。が、あの時は自分を茶化す気分だったとも言っている。また、罹災後も相変わらずエネルギッシュに俳句を作り続けた。最後まで好奇心とエネルギーに富んだ人だった。耕衣は、歳を重ねるにつれて、俳句も人生も豊かに生きた人であった。 掲句を読んで私も意を強くする。しかし、奇襲、諧謔、茶化しを重んじた耕衣のことである、少年にも色々ある、と言われそうで、改めて気を引き締めるのである。 <写真は植物園へようこそ!より> 写真撮影:青木繁伸(群馬県前橋市) |
評 者 | |
備 考 |
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