小笠原から南洋諸島へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
1880年から1881年頃、水谷は服部新助と知り合った。服部は水谷と同業の呉服商で千葉県出身であった。水谷は服部が亡くなる1895年まで服部と行動を共にするようになる。 1886年、水谷は300円の自己資金を携えて小笠原諸島の父島へ向かい、雑貨店を始めた。当時の父島には雑貨店がほとんど無く商売は繁盛した。当時、父島にはカロリン諸島やマーシャル諸島からの船がしばしば入港していた。水谷の目は小笠原の先、ミクロネシア方面へと向かっていった。そして水谷の心を捉えたのはグランパス島の噂であった。グランパス島はちょうど父島のような島であり、天然の良港に恵まれ椰子やビロウの原生林がうっそうと茂り、開拓すれば小笠原諸島に勝るとも劣らないであろうと言われていた。 1885年頃、水谷は小笠原島司の小野田元凱の支援を受けてグランパス島探査を行った。翌1886年には服部新助が帆船を購入し、水谷はその服部所有の帆船でグランパス島探査やグアム島、ポナペ島、トラック諸島などミクロネシアの島々との交易を始めた。水谷の交易は、日本人としては最も早いミクロネシア進出であったと言われている。ところが1889年12月には不開港場規則と商船規則に違反したということで処罰を受けたとされる。 1890年2月6日、東京府の高崎五六知事のもとに横尾東作、田口卯吉、水谷らが集まり、秩禄処分によって生活に困窮していた士族に対して事業資金を貸し付ける制度である士族授産金を活用した南洋諸島との貿易構想を提案した。この構想は田口卯吉を頭取とした南島商会の設立へと進み、南洋貿易の経験者であった水谷が航路や貿易品の指南を行い、5月には貿易船が出航する。 ところが南島商会は資金問題で内紛が起こり、横尾東作、服部新助、水谷らは脱退した。1890年10月には榎本武揚の後援のもとで横尾東作は恒進会社を創設し、服部新助、水谷らが参加した。同年12月から翌1891年8月にかけて、水谷は恒進会社の懐遠丸でミクロネシア各地を回って貿易を行った。1891年9月、水谷は独立して快通社を立ち上げ、トラック島に店舗を開いて貿易業を始めた。しかし持ち船の快通丸が座礁してしまったために短期間で快通社は解散を余儀なくされ、その後は服部新助の持ち船である相陽丸を用いて南洋貿易に従事した。 水谷が服部新助の持ち船で南洋貿易に従事していた1893年頃、東京朝日新聞ではミクロネシア方面の交易に従事している会社を5つ紹介している。その中には服部新助の相陽丸、横尾東作の恒進会社の他、小美田利義の一屋商会があった。しかし一屋商会は経営破綻に追い込まれ、1895年に市川喜七が代表を務める金十舎という会社に事業を譲渡する。同年、水谷が行動を共にしてきた服部新助が亡くなると、服部の事業も金十舎が引き継ぐ形となり、水谷は金十舎の社員となった。
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