富士通入社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 12:50 UTC 版)
1946年に富士通信機製造株式会社(1967年に富士通と改名)に入社した。池田敏雄が入社してすぐの1947年の秋、富士通では電話機のダイヤルの作動にトラブルが起きる問題が発生した(プロジェクトXの「国産コンピューター ゼロからの大逆転」では(通話に)「雑音が入る」というような感じで表現されているが、ダイヤルの問題ということから考えて、ダイヤルのパルスにノイズが乗り、ダイヤルミスが起きるというトラブルと思われる)。一時は進駐軍が工場の作業停止を命じてくるなどの事態となったが、社を挙げての努力により製造再開、さらに材料や設計を見直して新しい4号電話機の量産化に成功した。この問題について、池田は約1年をかけて、力学の基本である運動方程式を立てるところから始まる徹底した解析を行い、結果を論文にまとめた。 ドッジ・ラインの影響により逓信省からの受注が大きく減少したため、会社は人員整理を行った。一方で政府からの発注に依存しない経営を説いた取締役の高羅芳光(後の1970年 - 1974年に社長)と尾見半左右(後に富士通研究所初代社長)、課長の小林大祐(後の1976年 - 1981年に社長)が新市場であるエレクトロニクスへの事業展開を役員会で認めさせた。池田は小林の下で山本卓眞(後の1981年 - 1990年に社長)、山口詔規と共に東証向けの株式取引高精算用計算機の開発を行い約9ヶ月で試作を完成させた。東証はUNIVACの計算機を採用したが、この試作機は続いて開発されたFACOM100に繋がった。
※この「富士通入社」の解説は、「池田敏雄」の解説の一部です。
「富士通入社」を含む「池田敏雄」の記事については、「池田敏雄」の概要を参照ください。
- 富士通 入社のページへのリンク