奉行就任と改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 14:47 UTC 版)
明和2年7月4日(1765年)に奉行に就任する。奉行に就任すると、米沢藩の古い融資先で融資代償として米沢藩の蝋専売を引き受けさせていたが、森による別の商人への乗り換えで関係の途絶えていた江戸の豪商である三谷三九郎との関係修復に乗り出し、これに成功する。 先に奉行となっていた千坂高敦や芋川正令とは反りが合わず、明和5年(1768年)には芋川が辞任している。このため、改革の主導権は竹俣と、治憲の側近であった莅戸や志賀、佐藤文四郎らが握った。竹俣は離散農民の還住や新田や用水の開発や国産品推奨、森時代に一度設立されて廃止された郡奉行職復活などの地方行政機構整備といった農村復興政策や極端な倹約政策をすすめるが、安永2年(1773年)に江戸家老須田満主や奉行の千坂や色部照長、侍頭の芋川延親らが当綱一派の免職を要求した七家騒動が起こる。この騒動で審理中は一時出仕停止となったが主君の治憲による千坂らへの厳罰でことなきを得る。 安永4年(1775年)に三谷より米沢藩の三谷への古い借金19000両の債権放棄と11000両を年5分の低利子で借用することを了承される。これにより植樹政策での苗木購入や植えつけに対する補助金などの費用を確保する。同年に漆・桑・楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指したもので、当綱によって発表された。桑については養蚕推奨を目的としたものであり、養蚕推奨の理由として高畠藩を絹生産での成功を上げている。
※この「奉行就任と改革」の解説は、「竹俣当綱」の解説の一部です。
「奉行就任と改革」を含む「竹俣当綱」の記事については、「竹俣当綱」の概要を参照ください。
- 奉行就任と改革のページへのリンク