大移植工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:45 UTC 版)
移植の詳細については御母衣ダム#荘川桜も参照 1960年、御母衣ダム建設により水没する予定地を視察中、光輪寺の庭にあった巨桜を見たダム建設事業主である電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁高碕達之助は「なんとかこの桜を救えないものか」と、市井の桜研究家で「桜男」とも称された当時の桜研究の権威笹部新太郎に移植を依頼した。当初笹部はその困難さから、これを固辞したものの、高碕の熱意に絆され、結局は引き受けることとなった。その後、桜移植の事前調査にあたるため同地を訪れた笹部は、同様の桜の巨樹が照蓮寺にもあることを知り、この桜も移植することを提案し、2本同時に移植することとなった。 笹部指導の下行われた移植工事は、当時東海地方で随一の移植技術を持つと謳われた造園業・庭正造園の植木職人・丹羽政光らによって当時常識とされていた手法を覆すような新手法をいくつも取り入れて行われたが、世界的にも例がないといわれるほど大がかりなものであったうえ、樹齢400年以上という老齢とその巨体、更に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるほど外傷に脆弱な桜を移植することもあり、困難を極めた。可能な限り枝や根を落とした桜をダム水面上となる丘まで運搬し、移植したが、無骨な幹だけの姿は無残な姿にも見えたため、当時、笹部や高崎には水没地住民や世間から「むごい仕打ち」「いずれ水没するのに追い討ちをしなくても」などと非難が集中した。 しかし笹部・丹羽の目算通り、その翌1961年春、桜の活着が確認。1962年6月に行われた水没記念碑除幕式で当時の藤井崇治電源開発総裁により「荘川桜」と命名された。移植以来、同社の継続した保守管理もあり以降も年々枝葉を伸ばし続け、現在はかつてのように美しい花を咲かせている。荘川桜の活着当時、桜にすがりついて泣いた元住民もいたといわれる。平成10年頃までは水没地の元住民の集まりである「ふるさと友の会」が春先に荘川桜の元に集うなど、元住民にとっては現在でもかつてのふるさとの象徴的存在となっている。 移植から現在まで、電源開発が荘川桜の保守管理を行っている。手入れは移植に携わった丹羽政光の会社が電源開発より移植以来委託され続けており、2016年現在では孫である丹羽英之氏が担当している。荘川桜と同じ場所には、荘川桜の種から若山芳枝(元ダム建設反対運動「死守会」書記長、のち「ふるさと友の会」会長)が育てた苗を1984年に移植した二世桜も植えられており、いずれも咲くのは4月下旬から5月中旬頃で、開花中はライトアップされている。年間の観光客数は約5万人。荘川桜の歴史については、御母衣ダムの正面にある「MIBOROダムサイドパーク 御母衣電力館・荘川桜記念館において、移植工事の映像を含むドキュメンタリービデオ「桜守の詩」等の展示を見ることができる。
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