大異教軍の進撃
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865年末、ヴァイキングがイースト・アングリアに上陸した。ここに大異教軍のイングランド蹂躙が始まった。イースト・アングリア王は彼らに馬を差し出して和平を結んだ。ここで冬越しして準備を整えた大異教軍は866年末にノーサンブリアに侵攻し、11月1日にヨークを攻略した。867年ノーサンブリア人はヴァイキングに屈服してデーンゲルド(英語版)(デーン税)を支払い、従来の王オズブリフトを追放して、王室の出でない傀儡王エッラ(英語版)の擁立を受け入れた。しかしエッラらはヴァイキングとの闘争継続を決め、3月にヨークの奪回を試みたしたが失敗し、2人の王(エッラと共同王オスバート(英語版))が戦死した。後継には再び傀儡としてエグバート1世が立てられた。ダラムのシメオンによれば、エグバート1世の支配圏はタイン川以北に限定され、それ以外はヴァイキングの支配下に置かれた。867年、大異教軍は南下してマーシアを攻撃し、ノッティンガムを占領した。マーシア王ブルグレッド(英語版)とウェセックス王エゼルレッドは連合軍を結成してノッティンガムを包囲したが大規模な交戦には至らず、結局マーシアはヴァイキングと和平を結んだ。これは、大異教軍の侵攻中にアングロ・サクソン人の王国が2国以上連合して戦った最初で最後の戦闘であった。大異教軍は868年の秋にヨークへ戻って越冬し、この年の大部分をヨークに居座って過ごした。870年、マーシアを横断してイースト・アングリアに再南下し、セットフォードで越冬した。この時イースト・アングリア王エドマンドは屈服を良しとせず戦ったが敗れ、捕らえられて虐殺された。 870年、バイセジュ(英語版)率いる「大夏軍」(Great Summer Army)がスカンディナヴィアから到来した。これにより勢力を回復した大異教軍はウェセックスに再侵攻してレディングに入り、この年から871年にかけてウェセックス王国と数々の戦闘を繰り広げた。870年12月31日のエングフィールドの戦いで大異教軍はバークシャー太守アゼルウルフを敗死させたが、翌871年1月8日のアッシュダウンの戦いでエゼルレッド王とアルフレッドの兄弟に敗れ、バイセジュは戦死した。しかしこの後ウェセックス軍とヴァイキング軍は一進一退の攻防を繰り返し、その半ばでエゼルレッド王が死去した。戦後、ウェセックス王を継いでいたアルフレッドは大異教軍と和を結んだ。871年末には大異教軍はマーシア領だったロンドンで越冬し、872年にノーサンブリアに戻った。これはノーサンブリアで傀儡王に対する反乱が発生したためとみられる。872年の暮れには、大異教軍はリンジー王国(現リンカンシャー)トークシー(英語版)に滞留した。マーシア王ブルグレッドは再び金を払って和を請い、大異教軍はダービーシャーのレプトン(英語版)で越冬した。 873年、ブルグレッドは大異教軍に追放され、ローマに亡命した。大異教軍は傀儡王チェオウルフ2世(英語版)をマーシア王に即位させた。彼はアングロサクソン年代記では「王の愚かな近臣」と呼ばれている人物で、ヴァイキングに人質を出し、彼らが王国を取り上げようとする場合にはそれに応じることを誓約した。アルフレッド大王の伝記を書いたアッサーによれば、874年、ここで大異教軍は二手に分かれた。ハールヴダン・ラグナルスソン率いる一軍はノーサンブリアへと北上し、タイン川河畔で冬を越した。その後、この軍団はさらに北上してスコットランドに侵攻し、ピクト人やストラスクライド王国(英語版)と交戦した。876年になるとハールヴダン・ラグナルスソンは南に引き返し、部下たちにノーサンブリアの土地を分け与えた。デーン人たちはここで耕作を始めて定着し、この地はデーンロウの一部となった。
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