国難と急死とは? わかりやすく解説

国難と急死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:39 UTC 版)

孫休」の記事における「国難と急死」の解説

孫休学問好み諸子百家の書を全て読み尽くすほどの勢いであった。孫休学問や雉狩り夢中になり、次第朝政から距離を置き、古くからの知人である丞相濮陽興左将軍張布朝政掌握するようになっていった。 張布孫休厚遇いいことに、国権専断して、礼に外れ行動をとることが多くなった。あるとき、孫休博士祭酒韋昭博士の盛沖を招いて道理学芸について議論をしようとしたが、自分過失専断暴露されることを恐れた張布反対にあった。孫休張布よからぬ振る舞いについて既に知っており不愉快でもあったが、古くからの知人である張布対し軽く嗜める程度留め張布の望むとおりにしてやり博士招いて書物解釈談義取りやめとなった永安6年263年)夏5月交阯郡役人呂興らが反乱起こし太守孫諝殺害された。 同年10月、蜀(蜀漢)から、魏より攻撃受けているという連絡入った11月22日、蜀を救援するため、大将軍丁奉に魏の寿春攻撃させると共に将軍留平南郡施績元に派遣し、軍をどの方向に出すべきかを検討させた。丁封孫異には漢水流域に軍を進めさせた。しかし、蜀の劉禅降伏したという知らせ入り、これらの軍事行動のすべてが中止された。 永安7年264年)春2月鎮軍将軍陸抗・撫軍将軍歩協征西将軍留平建平太守盛曼らの軍勢が魏に下った蜀の巴東監軍羅憲永安白帝城)で包囲した同年4月、魏の部将新附督の王稚が海から句章侵入し、その地の長官捕虜とし、財貨男女200余り略奪した将軍の孫越がこれを迎え撃ち、船を一隻拿捕し30人捕虜とした。 同年7月海賊海塩襲い、司塩校尉駱秀殺害された。孫休中書郎の劉川に命じ廬陵の兵を率いさせ海塩救援させた。また、豫章平民張節反乱起こし1万余がそれに同調した。魏の将軍胡烈歩兵騎兵2率いて西陵侵攻し羅憲救援したため、陸抗歩協らは撤退した7月25日孫休崩御した。一説によると、その死の直前孫休は口を利けなくなり、字を書いて丞相濮陽興呼び、子の孫𩅦に濮陽興の前で拝礼させ、自ら腕をとって後事託して崩御したという。 しかし、交州離反と蜀の滅亡という国難前にして、呉国立派な主君待望されていた。そして、かねてより孫晧親しくしていた、左典軍の万彧孫晧皇帝推薦すると、濮陽興張布らが太后同意得て孫晧皇帝擁立した改元して元興元年264年となった12月に、孫休定陵葬られた。孫休は4人の男子がいたが、年長2人孫晧によって殺害された。裴松之によると、孫休妻子皆殺しにされたという{{要検証}}。

※この「国難と急死」の解説は、「孫休」の解説の一部です。
「国難と急死」を含む「孫休」の記事については、「孫休」の概要を参照ください。

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