国鉄32系電車
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32系電車(32けいでんしゃ)は、1930年から1932年にかけて、日本国有鉄道の前身である鉄道省が横須賀線向けに導入した、2扉クロスシートの旧形電車を便宜的に総称したものである。
モハ32形
製作年度 | 製造所 | 日車[表注 1] | 川車[表注 2] | 田中[表注 3] | 汽車[表注 4] | 計 | |
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形式 | 番号 | 両数 | |||||
1930年 | モハ32 | 007 - 011 | 001 - 006 | 012 - 021 | 022 - 032 | 001 - 032 | 32 |
サロ45 | 001 - 010 | 001 - 010 | 10 | ||||
サロハ46 | 001 - 010 | 001 - 010 | 10 | ||||
クハ47 | 001 - 010 | 001 - 010 | 10 | ||||
サハ48 | 001 - 012 | 013 - 018 | 001 - 018 | 18 | |||
1931年 | モハ32 | 033 - 045 | 033 - 045 | 13 | |||
サロ45 | 011 - 013 | 011 - 013 | 3 | ||||
サロハ46 | 011 - 013 | 011 - 013 | 3 | ||||
サハ48 | 022 - 024 | 019 - 021 025 - 028 | 019 - 028 | 10 | |||
クロ49 | 001 - 002 | 001 - 002 | 2 | ||||
サロ45形
32系車両 (戦前期) 一覧・主要諸元[表注 1] | |||||||||||
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形式 | モハ32 | サロ45 | サロハ46 | クハ47 | サハ48 | クロ49 | サロハ66 | サハ48 | |||
番号 | 32001 - 032 | 32033 - 045 | 45001 - 013 | 46001 - 013 | 47001 - 010 | 48001 - 028 | 49001 - 002 | 66001 - 013 | 66014 - 015 | 48001 - 028 | |
製造年 | 1930 | 1931 | 1930-31 | 1930 | 1930-31 | 1931 | - | ||||
旧番号 | - | 46001 - 013 | 45001 - 002 | 48001 - 028 | |||||||
改造年 | - | 1935 | 1936 | 1935 | |||||||
軌間 | 1067 mm | ||||||||||
電気方式 | 直流1500 V架空線方式 | ||||||||||
全長 | 17000 mm | 20000 mm | |||||||||
全幅 | 2840 mm(雨樋無)[表注 2]、2900 mm(雨樋有) | ||||||||||
車体幅 | 2805 mm | ||||||||||
全高 | 4250 mm | ||||||||||
屋根高 | 3750 mm | ||||||||||
自重 | 43.10 t | 30.80 t | 30.40 t | 30.80 t | 29.96 t | 32.80 t | 31.35 t | 30.70 t | |||
定員 | 特別室 | - | 10 | - | |||||||
二等 | - | 72 | 40 | - | 40 | - | |||||
三等(座席) | 100(66) | - | 56(36) | 120(82) | 134(88) | - | 51(32) | 59(30) | 124(86) | ||
便所 | - | 有[表注 3] | |||||||||
台枠 | UF20 | UF24 | UF23 | ||||||||
台車 | TR22[表注 4] | TR23 | |||||||||
走行装置 | 制御方式 | 直並列・弱界磁・総括制御 | - | ||||||||
主制御器 | 電磁空気カム軸接触器式 | - | |||||||||
主電動機 | 直流直巻整流子電動機 MT15A[表注 5] × 4基 | - | |||||||||
駆動装置 | 吊掛式駆動装置 歯車比27 : 61 = 2.26 | - | |||||||||
定格出力 | 400 kW | - | |||||||||
定格牽引力 | 26.5 kN(56 km/h) 70 %弱界磁 | - | |||||||||
最高速度 | 95 km/h | ||||||||||
ブレーキ装置 | 元空気だめ管式AE電磁自動空気ブレーキ | ||||||||||
集電装置 | PS2 × 1基 | - | |||||||||
電動発電機 | MH49-DM28 × 1基 出力100 V/2 kW | - | |||||||||
電動空気圧縮機 | MH16B-AK3× 1基 | - | |||||||||
32系 | 42系 | 52系 | 51系 | 40系 | 30系 | 31系 | 33系 | 50系 | 63系 | 70系 | (80系) | 木造 | 合計 | ||||||
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モハ32 | クハ47 | サロ45 | サハ48 | クロ49 | 小計 | ||||||||||||||
1947年6月1日 | 36 [表注 1] | 7 | 5 | 18 [表注 2] | 2 | 68 | 4 | 3 | 15 | 11 | 2 | 1 | 10 | 5 | 119 | ||||
1949年5月1日 | 40 | 7 | 5 | 21 | 2 | 75 | 3 | 3 | 15 | 11 | 3 | 6 | 56 | 1 | 173 | ||||
1951年1月1日 [表注 3] | 36 [表注 4] | 5 [表注 5] | 5 | 16 [表注 6] | 2 | 69 | 35 | 5 | 2 | 28 | 3 | 2 | 174 | 318 | |||||
1953年7月1日 [表注 7] | 5 | 13 [表注 8] | [表注 9] | 23 | 21 [表注 10] | 5 | 1 | 2 | 2 | 99 | 201 | 1 | 355 | ||||||
注釈
- ^ 海軍大臣西郷従道と陸軍大臣大山巌の連名で総理大臣伊藤博文宛に横須賀線の建設を請議した文書である『相州横須賀又は観音崎迄儀停車場布施要する件』においては、「相州横須賀は第一海軍区の海軍港にして、(略)艦船の製造修理、兵員の補充より兵器弾薬被服糧食等の供給に至るまで、海軍艦船にありては之を此港に仰がざるを得ず、又観音崎は(略)其防御に充て、実に東京湾防御の要路に当たるのみならず、その背面にある長井湾の如きは、敵兵上陸要衝の地なるを以て、是亦陸軍に於いて最大枢の地とす。(略)汽車鉄道を(略)布設するは、陸海軍軍略上緊要擱可からざる事業にして、大に両軍勝敗の関係するところに有之候条、汽車鉄道布設の義至急御詮議有之度此段請閣議候也」としている。
- ^ 当初田町駅隣接の東京機関庫品川分庫跡に設けられており、1942年に品川駅に隣接する位置に移転した。
- ^ 鉄道院基本形客車、28400系、オハ31系では3軸台車を使用した優等客車等が20 m級車体であり、三等車等も含め20 m級車体が標準となったのはスハ32系以降。
- ^ モハ32形が導入された1930年には、関西の私鉄では大鉄デニ500形や大軌デボ1200形、参急デ2200形といった20 m級車体の電動車が導入され、鉄道省でも1931年には20 m級のキハニ36450形を導入した。
- ^ 機関車、客車、貨車に対しては第1縮小車両限界が、電車に対しては第2縮小車両限界がそれぞれ適用された[15]。
- ^ 1929年度製車までは尾灯は2灯装備で1灯は赤色(後部標識)、1灯は緑色(前部標識)であったほか、同じく1929年度製車まで三等車の窓下に赤色の等級帯が入れられていた。
- ^ CS1は芝浦製作所がGEのRP101を原型に開発したもの、CS3は日立製作所がGEの特許を避けて自主開発したCS2(メーカー型式PRY-11、後にPR150)の改良型である。CS1はカム軸駆動機構のノッチ進め、ノッチ戻しが1つのシリンダによって駆動されるのに対し、CS2およびCS3ではそれぞれ1つずつのシリンダにより駆動される方式となっている[20]。
- ^ 『東洋電機製造100年史』では芝浦、日立、東洋としている[24]。
- ^ 鉄道省の標準的な客車用自動ブレーキ弁として、日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)がWH社製U自在弁の利点を取り入れて1928年に開発したもので、後に電車・気動車にも採用された。
- ^ 当時、東京鉄道局管内の電車の低圧引通用の電気連結器は、自動扉と電磁空気ブレーキを装備する30系と31系、32系以降の車両では7芯のKE50を3箇所設置していた一方、大阪鉄道局管内の40系、42系以降の車両は12芯のKE53を2箇所設置していた。
- ^ モハ32形では下り(偶数向き車は海側が電気機器側、山側が空気機器側、上り(奇数)向き車は海側が空気機器側、山側が電気機器側となっている。
- ^ 1949年10月20日付の称号変更で動力台車の記号が”DT”となり、TR14→DT10、TR22→DT11、TR25→DT12、TR35→DT13、TR37→DT14、TR39→DT15となった[35]。
- ^ 文献によっては32001 - 32015が上り(奇数)向きとしている[38]一方で、1947年6月1日時点では32014は偶数(下り)向きとなっている[39]。
- ^ 1927年、大宮工場製の20550形ナイロフ20550 - 20554のうち1両、全長17 m、台車TR11[40]。一等室部分の白色の等級帯を二等の青色に変更し、手摺類が真鍮の磨き出しとなっていた[41]ほか、電車と編成を組むための電気回路が設置されていた[42]。
- ^ しかし、京阪神地区のサロハ46形も、1936年から1937年にかけて、運転室設置によりクロハ59形、または便所設置によりサロハ66形に改称され形式が消滅したため、この改形式はあまり意味のないものとなった
- ^ 戦後の更新修繕時に大半の車両が閉塞されたがクモハ12001、クモハ51800等、方向幕窓と巻取器が晩年まで残置した車両も僅かにあった。
- ^ サハ45形として残存した他の4両(45005、45007、45008、45012)については同位置にサボ掛けが残置していた。
- ^ 二等車が不足したため、全列車の1/3弱にのみ二等車が連結された。
- ^ クハ58形全22両を改造する予定であったが、約半数の13両に対して施工されたにとどまった。
- ^ サハ36形 36023、サロ37形 37001, 37002、サハ57形 57004, 57010, 57015、クロハ69形 69001, 69002、サハ75形75005
- ^ サハ36形 36023、サハ57形 57010, 57023, 57029 - 57031, 57035、サハ75形75005、クハ55形(半室二等車) 55056, 55061, 55062
- ^ 当時同線で運行されていた車両のうち、63系を除く40系などについても同様に整備が実施され、初年度は横須賀線では32系と40系の計65両に施工された。
- ^ 文献によっては両妻面と片側面が湘南色、もう片側面がスカ色とされている[63]。
- ^ 70系のうち、1954年度までの東京鉄道局の車両はKE52を2箇所、大阪鉄道局と1954年度以降の東京鉄道局の車両はKE52を2箇所とKE50Aを1箇所の装備であった[65]。
- ^ 同時に元関西急電用サロハ66形に運転室を取付けた2両と、モハ30形焼失車を復旧した1両(次掲)が改造されている。
- ^ 空番の47051, 47053, 47055は、先に改造されていた47011 - 47013が充てられるべきものであったが、この時には改番されていない。
- ^ もとは1909年製のホデ1形10で、その後幾度かの称号改正の後デハ6250形6259となった後、1915年にデハニ6470形6471に、1927年に車両性能試験車クケン23100形23100に改造され、1928年の称号改正でクヤ16形16001に、1953年の称号改正でクヤ9010形9010となった。
- ^ 実際の改番は、運用の合間に1か月ほどをかけて順次行なわれたため、いわゆる二車現存状態も発生した。
- ^ 置き換え間もない1963年には並ロ相当の旧形一等車格下げの方針により二等車に格下げされてサハ15形となった。
- ^ 『横須賀線物語』 p.27ではクハ47をサハ48としている
- ^ 関西急電では1942年11月13日の急行運転の廃止とともに二等車も廃止された
- ^ 2両とも上り(奇数)向きから下り(偶数)向きとして低圧引通用の電気連結器をKE50を3箇所に変更したほか、69001は1943年4月から1年間、総武線に転用されて皇族の習志野への通学用に使用された[81]。
- ^ こういった自力走行のできない電車を編成して電気機関車が牽引する列車が運行されたが、この列車の運行時期についてはいくつかの記録があり、1945年3月の空襲後は4往復であった、1944年10月には運行されていたとする証言がある、1945年に4編成が組成されて3往復が運行された、1945年6月から運行された、運行は20年11月まで続けられた、1946年には電気機関車が電車を牽引することとなった、といったものがある。
- ^ 当初はクハ47形とすでに静岡地区に転出していたクハ58形を再度横須賀線に戻した上でクハ76形と同様の運転台に改造する、モハ42形とモハ43形は主電動機をMT40に交換して出力増強を図る、モハ32形は転出させてその分だけのモハ70形を新製とするという計画であったが、モハ43形の出力増強が7両に施工された段階で計画が変更となり、モハ42形、モハ43形も順次転出させてその分もモハ70形を新製する計画に改められ、クハ47形、クハ58形の運転室改造工事も63系→72系改造を優先させるため中止された[89]。
- ^ 編成は40030 - 49002 - 40050 - 40072であった。
出典
- ^ a b 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.61
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.54
- ^ a b 『「横須賀線物語」に寄せて』p.27
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.11
- ^ a b c d 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.32
- ^ 『旧型国電50年 I』 p.58-59
- ^ a b 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.198
- ^ a b c 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.66
- ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.797
- ^ a b 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.295-297
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.785
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.170-171, 295
- ^ a b 『横須賀線めぐり(1) 電車化当初の横須賀線』 p.20
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.781
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.782
- ^ a b 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.174, 186
- ^ 『横須賀線物語』p.27
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.176
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.897
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.892
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.885-886
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.896
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.816
- ^ 東洋電機製造『東洋電機製造100年史』 2018年 p.11
- ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.820
- ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.763
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.808-809
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.852
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.873
- ^ 平石大貫『80系・70系電車のあゆみ』「国鉄電車の記録 80系・70系電車」(鉄道ピクトリアル7月号別冊) 電気車研究会 2018年 p.15
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.137
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.174-175, 182-183, 186-187
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.182-183, 186-187
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.170-173, 182-183, 186-187
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.806
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.801-802
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.802-803
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.12
- ^ a b 『「横須賀線物語」に寄せて』p.35
- ^ 鉄道省工作局 『車輛形式図 客車 下巻』 p.2-11
- ^ a b 『横須賀線物語』p.26
- ^ a b 『横須賀線電車のスターたち』p.18
- ^ 「宮松寫眞館6 クロ49002」『鉄道模型趣味』2023年3月号(No.974)、機芸出版社、2023年、雑誌コード06455-03、p.2。
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.188-192
- ^ a b 『横須賀線めぐり(1) 電車化当初の横須賀線』 p.21
- ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.800
- ^ a b 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.68
- ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.798
- ^ a b c d e f g h 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.42
- ^ 『車輌形式図 電気車』 p.サロハ66~2
- ^ a b c 『横須賀線物語』p.29
- ^ a b 『横須賀線物語』p.32
- ^ 『国鉄電車詳細図集 -鉄道院/鉄道省時代-』 p.295
- ^ 『横須賀線物語』p.33
- ^ a b c d 『横須賀線物語』p.36
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.16
- ^ 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.42-43
- ^ a b c d 『「横須賀線物語」に寄せて』p.42
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.23
- ^ a b c 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.199
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.24
- ^ a b c d e 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.4-5
- ^ a b 『横須賀線物語』p.37
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.930
- ^ 平石大貫『80系・70系電車のあゆみ』「国鉄電車の記録 80系・70系電車」(鉄道ピクトリアル7月号別冊) 電気車研究会 2018年 p.30
- ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.935
- ^ 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.47
- ^ 『電車形式図 1953』 p.2-18
- ^ 『電車形式図 1953』 p.2-21
- ^ 『電車形式図 1953』 p.2-24
- ^ a b 『「横須賀線物語」に寄せて』p.44
- ^ 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.36
- ^ a b 『電車形式図(追録) 1966』 p.3-29
- ^ 『電車形式図 1960』 p.3-22
- ^ 『電車形式図 1960』 p.3-30
- ^ 『電車形式図 1960』 p.7-2
- ^ 『電車形式図(追録) 1963』 p.3-35-1
- ^ 『電車形式図(追録) 1966』 p.3-54-1 - 2
- ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.306
- ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.302
- ^ a b c 『横須賀線電車のスターたち』p.20
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.72
- ^ 『横須賀線物語』p.34
- ^ a b c 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.74
- ^ a b c 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.45
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.73
- ^ 『1950年代の戦前型国電(上)』 p.46
- ^ a b 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.79
- ^ 『「横須賀線物語」に寄せて』p.43
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.80
- ^ 『「横須賀線物語」に寄せて』p.36, 38, 41-42, 45-46
- ^ 『70系電車誕生の頃とその終焉』 p.22
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.81
- ^ 『横須賀線を訪ねる 120年 歴史の旅』 p.200
- ^ 『横須賀線の歴史過程』 p.14
- ^ 『横須賀線電車のスターたち』p.14
- ^ 『「横須賀線物語」に寄せて』p.36
- ^ 『1950年代の戦前型国電(下)』 p.10
- ^ 『「横須賀線物語」に寄せて』p.46
- ^ a b 『クロ49形貴賓電車の一生』p.89
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