国鉄オハ31系客車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 20:57 UTC 版)
国鉄オハ31系客車(こくてつオハ31けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道の前身である鉄道省が1927年(昭和2年)から導入した、国鉄で初の鋼製車体をもつ客車の形式群。なお、この名称は鉄道省や国鉄が定めた制式の系列呼称ではなく、1927年(昭和2年)より製造されたオハ44400形(のちのオハ32000形→オハ31形)と同様の車体構造を持つ客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。
注釈
- ^ 朝倉は具体名を挙げていないが、日本の半鋼製車両第1号は1923年(大正12年)の川崎造船で製造された神戸市電200形、全鋼製車第1号は1925年(大正14年)の阪神急行電鉄500形[1]。
- ^ 事故の衝突にはさまざまな形態があるが、特にひどいのが、木造車でも鋼製である台枠が「衝突で飛び上がった際に隣の車両に突き刺さる場合」で、木造車同士の場合、木の柱がこれに耐えられずに折れて木造部がお互い入り込むが、鋼製車の場合、妻面全体で激突するので車体同士が入り込む危険がないため。
- ^ その後工場の準備が整い、柱は薄板の折り曲げ、屋根も鋼製になったが内部の化粧張は木造のままだった。
- ^ P弁後継となるこのブレーキ弁は、鉄道省から日本エヤーブレーキ・三菱造船所の2社に対し、競作による開発指示が出されていたものである。日本エヤーブレーキによる試作品は同年8月に完成し、その後同年度中に鉄道省側での実用試験を完了して制式化された。A動作弁は機能的には当時のWABCO社製電車・客車用ブレーキ弁の最高級品であったU自在弁の簡略化版に当たり、U弁ほどの長大編成対応や高速応答性能は得られないが、その代償として機構が大幅に簡素化されるため、保守時に使用する旋盤さえ満足に普及していなかった当時の日本の国情に良く適合する、というメリットがあった。
- ^ 『決定版昭和史 第6巻』(毎日新聞社、1984年)で車番が判読できる。
- ^ スシ37形食堂(写真2-21)にある片持灯の裏側に位置する部品[4]。
- ^ このうち、スニ30 96は改番前の1941年9月16日の山陽線網干駅列車衝突事故により廃車されており、旧番号のスニ30661からスニ30 96への改番は書類上の処理のみ[要出典]。
- ^ スヤ39 2の車内写真では、テーブルや椅子は省略され、配膳口とストーブのみ設置されている[9][10][11]。
- ^ 帝国鉄道庁オハ225(1908年に帝国鉄道庁新橋工場で製造された、当時最新鋭の木造3軸ボギー式三等座席車)をルーツとする木造雑形荷物車。
出典
- ^ (福原2007)p.74-77「2-1 鋼製車体と電動発電機の誕生」
- ^ a b (朝倉1980-1)p.106
- ^ (朝倉1980-1)pp.106 - 107
- ^ 『スハ32800形の一族』上巻、p.170
- ^ 鉄道ピクトリアル1970年9月号、pp.20 - 21
- ^ 鉄道ピクトリアル1970年9月号、p.22
- ^ 『運輸公報』1948年10月16日『「スイネ39 1」及びスイテ47 1号車の取り扱いについて』。
- ^ a b 『特別職用車』p.19、『国鉄客車1950』p.76。
- ^ 『オハ31形の一族』下巻、p.163(写真9-13 - 17
- ^ 『最近10年の国鉄車両』pp.438 - 439
- ^ 『日本の客車』p.253(写真564 - 566)
- ^ 古沢明・近藤明徳「日立製作所水戸工場の通勤車」『鉄道ファン』No.76
固有名詞の分類
- 国鉄オハ31系客車のページへのリンク