国鉄線上での試験
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「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「国鉄線上での試験」の解説
折りしも研究所ではこの年の5月30日に研究所創立50周年を記念して銀座山葉ホールにて「東京 - 大阪間3時間への可能性」という講演会を開いていたが、この講演は大きな反響を呼び、朝日新聞社が後援していた関係から国電の中吊り広告にも掲載され、新聞・雑誌などでも取り上げられていた。既に、国鉄では後に新幹線となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった。 山本はこの年の7月2日に、国鉄に技師長として復職していた島に対して、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として、「東海道本線を貸してもらえないだろうか」と SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである。島は国鉄側の責任者として副技師長の石原米彦を指名、石原は「絶対に145km/h以上出さないこと」を条件に受諾した。 この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」「ライバル路線の私鉄電車を国鉄線で試験するなど論外」 といった反対意見が出た。当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていた が、分散動力方式の支持者からも「国鉄の面子が立たない」という反対意見が多かった。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという。 一方、SE車は日本で初めての信託車両であり、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった ため、「80系電車のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急社長の安藤楢六と国鉄総裁の十河信二との間で、SE車の貸借について契約が行われ、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した。 こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行うという、日本の鉄道史上で初めてとなる 国鉄・私鉄合同の試験が行われることになった。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった。
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