国外追放と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/22 00:10 UTC 版)
「コンラース・カレーイス」の記事における「国外追放と晩年」の解説
さらに6年間の控訴手続きを終え、コンラースはアメリカからオーストラリアに追放され、その後は改めてカナダに移住した。しかし利敵協力者として戦争犯罪に関与していたと認定された為、彼のビザは再び取り消され、1997年にはまたもオーストラリアへと追放された。 1999年、彼はイギリスのレスターシャー・キャスソープマナーに移り、ラトビア福祉基金が運営する老人養護施設に入った。彼の素性が明らかになると当時の英国内相ジャック・ストローは彼の国外追放計画を明らかにしたが、英政府の動向を察知したカレーイスはそれが実行に移される前にオーストラリアに戻っていた。カレーイスを起訴するべく追跡していたサイモン・ウィーゼンタール・センターは、結果的に逃亡を許してしまったストローを批判した。同センターの広報担当者は彼を起訴する機会を逃したとして「仮に彼がオーストラリアに戻ったなら、同国政府のナチ戦犯に対してあまりにずさんな態度の恩恵を受けるであろう」と警告した。 2000年9月、ラトビア当局はついにサラスピルス収容所に関する戦争犯罪に関してカレーイスの召喚を求めた。これを受けたメルボルン裁判所は2001年5月にラトビアに対するカレーイスの引渡しを決定した。カレーイスはこの判決を不服として控訴したが、彼自身が患っていた認知症や前立腺ガンの為に諸手続きには遅れが出始めていた。彼の弁護士は、今やカレーイスがほとんど視力を失い、戦時中の記憶も思い出せなくなっているのだと主張した。 2001年11月8日、カレーイスはラトビアに送り返される事なくメルボルンにおいて88歳で死亡した。その後、カレーイスの弁護士はオーストラリア政府当局の態度を「病気の老人を引き渡そうとする非人道的かつあまりに冷淡な行為」であるとして非難し、カレーイスを巡る一連の訴訟を「魔女狩り」と例えた。なおオーストラリアにおける最後のインタビューで、少なくともナチ占領下のラトビアにて補助警察に勤務していた点についてはカレーイス自身も認めている。
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