台頭と中央集権化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:17 UTC 版)
ウブリに続き、中央集権化と小規模な征服はモシ諸王国の主要な課題であった。ワガドゥグー王国はワガドゥグーの支配権を維持していたが、ウェドラゴの息子らによって建国された他の王国、タンコドゴ王国、ファダ・ングルマ王国、ゾンドマ王国は独立を維持していた。ワガドゥグー王国第五代国王であるコムディミ(1170年頃)の下、ワガドゥグー王家の一員によって革命が始まり、北方にヤテンガ王国とリジム王国が建国された。コムディミとヤテンガの戦争は何年にもわたり、最終的にヤテンガは独立したモシ諸王国の一国、ゾンドマを占領した。コムディミは息子らのために、ある程度の自治権を持つ独立した州、ディマという新たな権限を作り上げた。この土地の引き継ぎと息子をディマとする制度は、後の多くの支配者にも受け継がれていった。 モシ諸王国が強大化するにつれ、周辺諸国との対立も大きくなった。 ヤテンガ王国は1328年から1477年の間にソンガイ帝国を攻撃する重要な勢力となり、トンブクトゥを占領し、重要な交易拠点であるマシナを略奪した。アスキア・ムハンマド一世がイスラームを広げることを願い、ソンガイ帝国の君主となると、アスキア・ムハンマドは1497年にモシ諸王国へと聖戦を行った。この戦争でモシ諸王国は敗北したものの、イスラムを押し付けようとする試みに抵抗した。1591年、サアド朝モロッコがソンガイ帝国を征服すると、モシ諸王国は再独立した。 18世紀までに、モシ諸国は地域の経済力と軍事力を大幅に上昇させた。対外貿易はアフリカ全域で大きく増加し、フラニ諸国やマリ帝国と大きなつながりを持つようになった。こうした対外関係には、モシ諸王国がアフリカの様々な勢力から何度も受けたということが含まれる。この地域にはマシナ帝国やソコト帝国と言ったイスラムを強制的に広めようとするジハード国家がいくらかあったが、モシ諸王国は伝統的な宗教と儀礼をほとんど維持した。 国内においては、モシ諸王国は「ナコンブセ」とテングビセを区別していた。ナコンブセはモシ諸王国の創始者の血統にあたり、神聖な統治権を与える「ナアム」の力を主張した。これに対し、テングビセは諸王国に同化した地元民であり、ナアムの力を行使でないと考えられた。しかし、テングビセは地域に対するつながりから、土地に関する問題を裁定すること許す「テンガ」を持っていた。支配者の「ナアム」とテングビセの「テンガ」の支援で、モシ社会における力は双方向の次元において繋がっていた。
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