古典に登場する子持山
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.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}児毛知山(こもちやま) 若鶏冠木(わかかへるで)の 黄葉(もみ)つまで 寝もと吾(わ)は思(も)ふ 汝(な)はあどか思(も)ふ 詠み人知らず、『万葉集』3494(14巻)東歌 (大意)子持山の春の若いカエデが秋になって紅葉するまでずっとあなたを抱いていたい。あなたはどうか。 一般に、奈良時代の『万葉集』に掲載されたこの東歌(巻14、3494)は、上野国(群馬県)の子持山のことを詠んだものとされてきた。 ただし、平安時代末期の『五代集歌枕』や『和歌色葉』(1198年頃)といった歌学書では、この和歌の主題がどこの土地のものであるかは言及していない。また、同時期の藤原清輔による『奥義抄』ではこの歌を陸奥国で詠まれたものとして解説している。 こもち山 谷懐に おひたてて ききのはぐくむ 花をこそみれ 伝源俊頼作、『夫木和歌抄』(延慶3年 (1310) 年頃成立) 鎌倉時代後期の『夫木和歌抄』掲載のこの和歌も子持山を詠んだものとされている。 子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦につつむ 鎖とぞ知るまたは子持山 紅葉をわけて 入る月は 錦をつつむ 鏡なりけり 円珠尼(? - 1582年) 円珠尼は室町時代後期の川田城(沼田市)の城主、川田光清の娘で、小柳姫といった。沼田城の城主夫人の侍女となり長野業正の家臣陶田弥兵衛に嫁ぐも、まもなく離別した。18歳のときに詠んだこの歌が正親町天皇(在位:1557年 - 1586年)に見出され、正親町天皇は「上野の 沼田の里に 円なる 珠のありとは 誰か知らまし」と御製を詠んだという。これにより小柳は「円珠」と名を改めた。円珠尼はのちに厩橋城城主となった滝川一益の和歌の師となったという。この「円珠尼」の和歌が刻まれた石碑は登山口にある。 このほか子持山を詠んだ和歌として次のようなものがあり、山中に歌碑が設けられている。 子持山 谷懐露(ふところ)に生いたてて 木々の葉子くむ 花をこそみれ 姉小路済継(1470年 - 1518年) 子持山 かえでの宮に祈らくは わが恋のさち わが歌のさち 雲わたる 天のまほらに 獅子岩は 大口あきて たけり立ちたり 須藤泰一郎(1889年 - 1933年) 子持山 若葉のときに 我はきて 草をぞ集む 手に餘るまで 土屋文明(1890年 - 1990年)
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