古代ローマの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:14 UTC 版)
実際に帝国内部の状況、特に経済は徐々に悪化しつつあったが、3世紀に入ると異民族の侵入や内戦がそれに拍車をかけ、帝国を崩壊へと導いた(3世紀の危機)。 皇帝ディオクレティアヌス(在位284年-305年)やコンスタンティヌス1世(在位306年-337年)により、帝国の再建が試みられた。コンスタンティヌス1世は、内戦においてキリスト教徒の助けを借りたこともあり、313年ミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。380年には、テオドシウス1世によってキリスト教が国教とされた。 395年テオドシウスの死去に伴い、それぞれミラノ(後にラヴェンナ)とコンスタンティノポリスを首都とする西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割統治された。 378年のアドリアノープルの戦いにローマ軍が敗北したことで、ゲルマンの民族大移動は止めようもなく、ゴート族、フン族、ヴァンダル族、フランク族、ブルグント族の侵入が続いた。410年にローマが略奪された(ローマ略奪)。
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