北海帝国、ヴァルデマー時代
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「デンマークの歴史」の記事における「北海帝国、ヴァルデマー時代」の解説
詳細は「北海帝国」を参照 11世紀、クヌーズ2世(クヌーズ大王)は、イングランドに侵攻し、デンマークからイングランド、ノルウェーにまたがる北海帝国を築き上げたが、彼の死後、北海帝国は崩壊し、王位継承をめぐって国内の混乱が続いた。 クヌーズ2世の後を襲ったハーデクヌーズは1042年、後継者を残さずイングランドのランベスで果てた。その後、ノルウェー王マグヌス1世(マグヌス善王)が1042年にデンマーク王として即位したが、クヌーズ2世の甥にあたるスヴェン2世が1047年にマグヌス善王を追い出し、デンマーク王となった。 スヴェン2世はスカンディナヴィア全土を管轄していたハンブルク=ブレーメン司教区(英語版)の司教Adalbert of Hamburgと良好な関係を築いたうえで、ハンブルク=ブレーメン司教区の許可の下、デンマーク国内を8つの司教区に分割し、各地に司教を配置した。しかし、スヴェン2世没後、一族内で後継者争いが勃発、王家の力がそがれ、貴族が勢力を台頭していく中で、1157年、当時王位をめぐり争っていた三人のうちスヴェン3世、クヌーズ5世が殺害され、生き残ったヴァルデマーが単独で王位につくことに成功した。のちのヴァルデマー1世である。 1157年、王位についたヴァルデマー1世(ヴァルデマー大王)のもとで、混乱したデンマーク王国の再建が始まった。幼馴染でロスキレ司教であるアブサロンの協力の下、王権の強化を図るとともに、バルト海南岸のヴェント人に攻撃を仕掛けるなど、本格的なバルト海進出の第一歩を踏み出した。また、アブサロンはエーアソン海峡の海岸に要塞を築いた。これがコペンハーゲンの発祥である。 ヴァルデマー1世、次いでクヌーズ6世(英語版)の後を継いだヴァルデマー2世(勝利王)は、エストニアを支配下に組み込み、さらにバルト海に勢力を拡大した。しかし、1223年に家臣の姦計にかかり多くの領土を喪失した。ヴァルデマー2世の死後、再び王位継承問題などでデンマークは混乱の時代に突入した。王室が深刻な財政難に陥るなか、ほとんどの領土は借金の担保となり、一層その領土は縮小した。さらに、この頃にはドイツ人の東方植民が進展していた。彼らはバルト海沿岸に都市を建設し、ハンザ同盟を通じてバルト海に強い影響力を及ぼした。1332年にクリストファ2世の死により、1340年までの8年間デンマークは空位時代となった。 こうした混乱を収拾してデンマークの失地回復につとめたのが、14世紀半ばのヴァルデマー4世(復興王)であった。ヴァルデマー2世の時代に獲得したエストニアを売却した利益で、新たな傭兵を雇い、逆らう貴族を次々に撃破していき、かつての領土をとりもどすことに成功した。当時猛威をふるっていたペスト(黒死病)が多くの貴族の命を奪ったことも、彼らの領土を再び王領に組み込んだという点で、ヴァルデマーに有利に働いた。 こうして王権の強化していったヴァルデマーであったが、バルト海の中心に位置する貿易拠点であるゴトランド島に遠征したことは、ハンザ同盟やスウェーデンの警戒を招いた。彼らが反デンマークで結集したため、ヴァルデマーはシュトラルズントで和議を結び屈服した。とはいえ、領土を縮小させたわけではなかったため、デンマークはその勢力を保ち続けた。
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