北伐での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:13 UTC 版)
1924年(民国13年)5月、黄埔軍官学校が開校し、劉峙は同校の戦術教官に任命された。まもなく同校本部参謀処科長に移っている。校内に教導団が組織されると、劉は教導第1団第2営営長に任ぜられた。1925年(民国14年)8月、国民革命軍が組織されると、劉は第1軍第1師第1団上校団長に任ぜられ、東征(陳炯明討伐)に従軍している。第2次東征後の1926年2月に、第1軍第2師副師長に昇進、まもなく師長となった。3月の中山艦事件の際には、劉は蒋介石の指示を受け、中国共産党党員などを迅速に拘留するなどしている。 同年7月、北伐が開始されると、劉峙率いる第2師は総予備隊となり、蒋介石に従って湖南省に入る。9月、武昌を攻撃したが攻略できず、江西省へ転じて北京政府側の孫伝芳軍を撃破した。翌1927年(民国16年)2月、東進して杭州に到達し、そこからさらに北進して北京政府軍を各地で破っている。5月、第1路軍第13縦隊指揮官に任ぜられ、長江を渡河して進撃を続けた。8月、第1軍軍長兼第2師師長に昇進し、上海の守備を委ねられている。12月には徐州を攻略し、この軍功で1928年(民国17年)1月、第1集団軍第1軍団長兼第1軍軍長に昇進した。その後も奉天派の軍勢を各地で撃破し、5月、済南を占領している。
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