内政と外交姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 05:27 UTC 版)
「アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ」の記事における「内政と外交姿勢」の解説
アブドゥッラーは映画館の解禁や女性の登用などサウジアラビアの近代化に努力しており、サウジアラビア初の高層ビルであるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズはアブドゥルアズィーズ王寄贈事業の一環として建設された。一方、サウジアラビアの王室は世界中のマドラサに出資しており、サウジアラビアはアフガニスタンのターリバーンの、主要な支援者でもあった。ただしターリバーンへの支援はムジャヒディーン時代にしかなくアメリカに比べるとほんのわずかな金額である。アルカイーダへの支援はなかったと2004年のアメリカの独立調査で判明している。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件のあと、サウジアラビアとアラブ首長国連邦はターリバーン政権の承認を取り下げた。また、テロ組織への支援の証拠はないということにも注意すべきである。saar foundationへの調査でも証拠は見つからなかった。 2002年にはいわゆるアラブ和平イニシアティブを提唱した。これは当時サウジアラビアがイスラエルに対する、和平の最初の試みであると受け止められた。この計画はイスラエルに対し、パレスチナ自治政府に占領地区のほとんど全部を返還し、パレスチナ自治政府を承認するよう呼びかけたものであった。それと引き換えに、アブドゥッラーは前例の無い譲歩を申し出た。これには、アラブとイスラエルの衝突を終わらせイスラエルと和平条約を結ぶことや、イスラエル国を承認すること(1947年に国連による分割案が国連総会で承認されているにもかかわらず)、およびアラブとイスラエル間の国交正常化の成立といったものが掲げられた。これは先代のファハド国王が提案し、イスラエルの生存権を事実上黙認したフェズ憲章を踏襲したものとされる。この計画は、フェズ憲章と同じようにアラブ連盟の首脳会議が全会一致で可決し、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と歓迎したものの、具体的な交渉で頓挫した。2007年のリヤドで開かれたアラブ連盟首脳会議でもイニシアチブが再確認され、ヤセル・アラファトの後を継いだマフムード・アッバースも「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと平和を築く」としてイニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルの承認になることからイニシアチブに否定的であり、拒否する姿勢を示した。 アラブの春に際しては、シリアの友人たちの一員としてシリア内戦に介入し、2011年バーレーン騒乱では湾岸協力会議の盟主として軍をおくった。安全保障面ではバンダル・ビン・スルターンを側近として重用していた。
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