全大丸時代
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夏の県大会に敗れ進路が定まらない中、関西大学野球部キャプテンの木嶋一黄の誘いを受け、同部のセレクションを受ける。ここで小林は高評価を得、スポーツ推薦による入学を確実なものにした。しかし関西大学が突如スポーツ推薦枠を廃止し、入学は立ち消えとなった。ここで大学卒業後の大丸(現・大丸松坂屋百貨店)入社が決まっていた木嶋に再び声をかけられ、同社に入社。神戸店に勤務した。神戸店では当初呉服売り場に配属され、当時女性客や店員の間でその容姿が話題になったという。勤務の傍ら、同社の社会人野球チーム「全大丸」でプレーすることとなった。小林は当初「ギリギリで入れてもらえた」と感じていたが、実際には小林の実力は高く評価されていた。配属先の神戸店では練習後の業務が免除されていたのがその証拠である。この時期に小林は球種を増やすために腕の位置を下げ、アンダースローに近いフォームで投げるようになった。これにより、カーブの曲がりもそれまでより良くなった。 入社1年目の1971年5月、読売ジャイアンツスカウトの伊藤菊雄は、日本石油との練習試合に登板した小林に目を留めた。体格に恵まれないためプロ野球選手になるのは無理だと考えていた小林は、都市対抗野球大会の京都予選に向けた練習中に伊藤に引き合わされ、大いに驚いた。小林は幼いころからのジャイアンツファンだった。チームは京都予選を勝ち上がることはできなかったが、大会後近鉄バファローズや南海ホークスも小林に注目するようになった。しかし小林には、依然として胃腸の弱さの問題があり、夏になると体調を崩すのが常だったため、体力面でプロ野球でシーズンを通じて活躍できるかどうか不安があった。また、都市対抗野球大会の京都予選を突破して全大丸に恩返しがしたいという思いもあったことから、プロ入りする意思のないことを宣言した。小林の宣言を受けて近鉄と南海は1971年のドラフト会議での指名を回避。これに対し読売ジャイアンツは6位で指名した。小林は事前の宣言通り入団を辞退したが、巨人側には指名により1年間の交渉権を確保し、都市対抗野球大会終了後に入団させる狙いがあった。 翌1972年3月、京都社会人野球春季大会で同大会史上2人目のノーヒットノーランを記録。5月の京都市長杯争奪社会人野球大会でも準決勝・決勝で完封するなど順調な仕上がりで6月の都市対抗野球大会京都予選に臨んだ。チームは3戦全勝の成績で3年ぶりの都市対抗野球大会出場を決め、小林は決勝リーグで前年に敗れた日本新薬を1失点に抑えて完投勝ちを収めた。7月の都市対抗では1回戦で電電東北を相手に先発、5回を1失点に抑えるが惜敗。その後に小林は伊藤に巨人入団の意思を伝えた。11月17日正式に入団が発表された。小林にはもう1年全大丸でプレーし、次回のドラフト会議でより上位での指名を狙う選択肢もあったが、巨人から指名を受けられるという保証はなかったため、巨人ファンの父親に喜んでもらいたいという思いを優先させた。入団に際し小林は、当時の制限最高額である1000万円の契約金を要求。900万の契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件を勝ち取った。
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