全大丸時代とは? わかりやすく解説

全大丸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:03 UTC 版)

小林繁」の記事における「全大丸時代」の解説

夏の県大会敗れ進路定まらない中、関西大学野球部キャプテンの木嶋一黄の誘いを受け、同部のセレクションを受ける。ここで小林高評価を得、スポーツ推薦による入学確実なものにした。しかし関西大学突如スポーツ推薦廃止し入学立ち消えとなった。ここで大学卒業後の大丸(現・大丸松坂屋百貨店入社決まっていた木嶋に再び声をかけられ同社入社神戸店勤務した神戸店では当初呉服売り場配属され当時女性客や店員の間でその容姿話題になったという。勤務傍ら同社社会人野球チーム全大丸」でプレーすることとなった小林当初ギリギリ入れてもらえた」と感じていたが、実際に小林実力高く評価されていた。配属先の神戸店では練習後の業務が免除されていたのがその証拠である。この時期小林球種増やすために腕の位置下げアンダースローに近いフォーム投げようになった。これにより、カーブ曲がりそれまでより良くなった。 入社1年目1971年5月読売ジャイアンツスカウトの伊藤菊雄は、日本石油との練習試合登板した小林に目を留めた。体格恵まれないためプロ野球選手になるのは無理だ考えていた小林は、都市対抗野球大会京都予選向けた練習中に伊藤に引き合わされ大い驚いた小林幼いころからのジャイアンツファンだった。チーム京都予選勝ち上がることはできなかったが、大会後近鉄バファローズ南海ホークス小林注目するようになった。しかし小林には、依然として胃腸の弱さ問題があり、夏になると体調を崩すのが常だったため、体力面でプロ野球シーズン通じて活躍できるかどうか不安があった。また、都市対抗野球大会京都予選突破して全大丸に恩返しがしたいという思いもあったことから、プロ入りする意思のないことを宣言した小林宣言受けて近鉄南海1971年ドラフト会議での指名回避。これに対し読売ジャイアンツは6位で指名した小林事前宣言通り入団辞退したが、巨人側には指名により1年間交渉確保し都市対抗野球大会終了後入団させる狙いがあった。 翌1972年3月京都社会人野球春季大会同大会史2人目のノーヒットノーラン記録5月京都市長争奪社会人野球大会で準決勝・決勝完封するなど順調な仕上がり6月都市対抗野球大会京都予選臨んだチームは3戦全勝成績3年ぶりの都市対抗野球大会出場決め小林決勝リーグ前年敗れた日本新薬を1失点抑えて完投勝ちを収めた7月都市対抗では1回戦で電電東北相手先発、5回を1失点抑える惜敗その後小林伊藤巨人入団意思伝えた11月17日正式に入団発表された。小林にはもう1年全大丸でプレーし次回ドラフト会議でより上位での指名を狙う選択肢もあったが、巨人から指名受けられるという保証はなかったため、巨人ファン父親喜んでもらいたいという思い優先させた。入団際し小林は、当時制限最高額である1000万円の契約金要求900契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件勝ち取った

※この「全大丸時代」の解説は、「小林繁」の解説の一部です。
「全大丸時代」を含む「小林繁」の記事については、「小林繁」の概要を参照ください。

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