備中上野氏とは? わかりやすく解説

備中上野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:53 UTC 版)

上野氏」の記事における「備中上野氏」の解説

備中上野氏は、上野信孝一門の上野高直が信孝の後を受け継ぎ村山城(鬼邑山城)に入ったことにはじまる。また上野頼久は備中松山城に入る。(後、喜村山城他一連の城は滅亡し一方備中松山城存続し繁栄したことから、後世において史実主従逆転し錯誤して伝えられることになる) 上野頼久は、備中松山臨済宗天柱安国寺頼久寺)を再興し菩提寺とした。頼久の後は、嫡子上野頼氏家督継ぎ備中松山城となったが、頼氏は天文2年1533年)に庄為資によって攻め滅ぼされた。 上野高直は、下道郡市場村臨済宗万寿山報恩寺再興し菩提寺とした。高直の後は、嫡子上野肥前高徳家督継ぎ村山城主となったが、高徳隆徳)は弘治年中1555年-1558年)に備前常山城移り、この城を居城とした。 また、上野隆徳は、備中松山無残な最期を遂げた一族上野伊豆守頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城となった三村家親の娘を室とし、備中一円勢力広げる三村氏との縁故深めていった。 元来上野氏は、信孝を通じて毛利氏とも格別信頼関係有していたが、信孝も、また、元就他界して後、隆徳は、将軍家上野宗家の意に反し織田方と通じた三村家親嫡子元親に加担して毛利氏対抗することとなり、その挙句天正3年1575年)に小早川隆景率い毛利軍によって攻め滅ぼされた。これが、世に云う常山合戦である。 上野隆徳は、備前常山城主として臨済宗岳山久昌寺再興しているが、上野氏菩提寺であった報恩寺倉敷市真備町)には、隆徳とその室・鶴姫当時からの位牌が、今も祭られている。

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