備中上野氏
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備中上野氏は、上野信孝の一門の上野高直が信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入ったことにはじまる。また上野頼久は備中松山城に入る。(後、喜村山城他一連の城は滅亡し、一方、備中松山城は存続し繁栄したことから、後世において、史実が主従逆転し、錯誤して伝えられることになる) 上野頼久は、備中松山の臨済宗天柱山安国寺(頼久寺)を再興し菩提寺とした。頼久の後は、嫡子上野頼氏が家督を継ぎ備中松山城主となったが、頼氏は天文2年(1533年)に庄為資によって攻め滅ぼされた。 上野高直は、下道郡市場村の臨済宗万寿山報恩寺を再興し菩提寺とした。高直の後は、嫡子上野肥前守高徳が家督を継ぎ喜村山城主となったが、高徳(隆徳)は弘治年中(1555年-1558年)に備前常山城に移り、この城を居城とした。 また、上野隆徳は、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野伊豆守頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城主となった三村家親の娘を室とし、備中一円に勢力を広げる三村氏との縁故を深めていった。 元来、上野氏は、信孝を通じて毛利氏とも格別の信頼関係を有していたが、信孝も、また、元就も他界して後、隆徳は、将軍家や上野宗家の意に反し、織田方と通じた三村家親の嫡子元親に加担して毛利氏に対抗することとなり、その挙句、天正3年(1575年)に小早川隆景が率いる毛利軍によって攻め滅ぼされた。これが、世に云う常山合戦である。 上野隆徳は、備前常山城主として臨済宗豊岳山久昌寺を再興しているが、上野氏の菩提寺であった報恩寺(倉敷市真備町)には、隆徳とその室・鶴姫の当時からの位牌が、今も祭られている。
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