作曲と完成までとは? わかりやすく解説

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作曲と完成まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/21 17:05 UTC 版)

スターバト・マーテル (ドヴォルザーク)」の記事における「作曲と完成まで」の解説

30歳まで作曲家としては無名存在で、貧困にあえぐ中、プラハ楽団ヴィオラ奏者として勤務しながら作曲活動行っていたドヴォルザークであったが、1873年初演され讃歌『ビーラー・ホラの後継者たち』の成功でようやくプラハ楽壇彼の名が認知されるようになる。 その讃歌初演と同じ年にドヴォルザークは、彼の初恋相手だったソプラノ歌手ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァーの妹でアルト歌手のアンナ・チェルマーコヴァーと結婚翌年1874年)には長男誕生するなど、結婚からの数年間で3人の子供に恵まれた。更に1875年2月には前年つまり長男誕生の年に『交響曲第3番』や『交響曲第4番』等の作品応募していたオーストリア政府奨学金審査合格当時年収の倍以上にあたる奨学金を受けることが決まり作曲専念できるという幸せつかんだ。 ところが、その奨学金審査合格の年、ドヴォルザークに悲しい出来事もたらされた。当年1875年)の9月出産した長女ホセファがその僅か2日後亡くなったのである。この出来事きっかけとなって翌年1876年)に入ってから『スターバト・マーテル』のスケッチ着手、翌1876年2月19日から5月7日にかけてスケッチを一旦仕上げているが、他の仕事多忙きわめたために思うようにはかどることが出来ずスケッチ1年半近く棚上げにされた状態でいた。 そうした中、ドヴォルザークは再び悲劇見舞われることになる。当作品スケッチ完成させた翌年1877年)の8月当時11ヶ月だった次女ルジェナが劇薬誤飲し死亡、更に同年9月には当時3歳だった長男オタカル天然痘罹患して亡くなった。これで、アンナ結婚してから数年の間に設けた3人の子供を全て失ったこうした悲しい出来事は、ドヴォルザークに当作品作曲の筆を再び進ませる大きな要因となった当時作曲途上にあった交響的変奏曲』を急遽完成させたのち、スケッチ終えて棚上げにしていた当作品楽譜引っ張り出して作曲再開悲しみ乗り越えようとする意志から曲を書き進め長男亡くしてから約2ヶ月経った1877年11月13日オーケストレーション終え完成こぎつけた

※この「作曲と完成まで」の解説は、「スターバト・マーテル (ドヴォルザーク)」の解説の一部です。
「作曲と完成まで」を含む「スターバト・マーテル (ドヴォルザーク)」の記事については、「スターバト・マーテル (ドヴォルザーク)」の概要を参照ください。

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