住民たちとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 09:23 UTC 版)
佐伯は単に健康状態だけでなく、患者の生活にまで気を配った。寿町には様々な人間がおり、好奇心旺盛な佐伯は、そうした人々の生活相談に受けることも多かった。医療活動の延長線上との考えからであり、そうした相談事を人間学の講義を受講しているようなものと考えてさえいた。 赴任当初は、佐伯は「余所者」として歓迎されず、「女には勤まらない、すぐに辞める」との陰口も叩かれた。しかし佐伯の持ち前の粘り、行き届いた世話が評判を呼び、赴任から1年が経つ頃には、佐伯は住民の心をつかむまでになった。 佐伯の顔を見るためだけに診療所に顔を出す住民、佐伯の助言により数十年ぶりに故郷に帰郷した者もおり、その故郷から礼状が届くこともあった。佐伯の体調不良のときには果物を差し入れる患者もおり、佐伯に対して暴力沙汰を起こした患者が、後でその詫びに食べ物を贈ってきたこともあった。診療中に自分の病気が佐伯に伝染することを気遣う患者もいた。学校を卒業できた、明け暮れていた酒を卒業できた、簡易宿所を出て一般の住居に転居できた、などの報告に来る住民たちもいた。前述のように特別診療で診療費後払いであった患者が、懸命に働いて金を貯めた末、7年後に診療費を払ったこともあった。指がちぎれそうになった患者から、指の切断を依頼された際に、出産時の母の心を説いて「指1本でも大事な命の一部、男の約束で指なんかつめると女が許さない」と叱って、指を繋いだ話もある。この患者は号泣し、後の診察で佐伯に「あんなに泣いたのは人生で初めて」「誰も俺を叱ってくれなかった。先生みたいに誰かが叱ってくれれば、俺も半端者にならずに済んだ」と語った。 佐伯の尽力により寿町では、かつては僻み根性が強くて病気を治すことに消極的だった住民たちが、平成期に入る頃には病気を治療しよう、働きたいという意欲を持ち出す、といった変化もあった。佐伯もまた、寿町のマイナスなイメージを払拭すべく、講演活動では寿町の存在を勇気をもって話していた。 持ち前のバイタリティと包容力から、寿町の住民たちからは下の名前で「てるこ先生」と慕われた。人々に慕われたのは、ユーモア、豪快さ、温かさ、飾り気のなさを兼ね備えた性格もあると見られている。休診の報せを出したときには、住民たちが「辞めるんじゃないだろうな」「先生が辞めたら俺たち死んじゃうよ」と、駄々をこねる子供のように訴えた。
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