亡命運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 17:13 UTC 版)
「ドイツ人追放」も参照 ズデーテン割譲後のチェコスロバキアに対するドイツの圧力が強まるなかで、チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党指導者は亡命を選択した。彼らはドイツ社会民主党の亡命組織ソパーデ(英語版)と連携をとろうとしたが交渉は決裂した。 1939年5月30日にチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党のヴェンツェル・ヤークシュ(英語版)はロンドンで「ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織」を設立し、ズデーテン地方を代表する民主主義勢力として活動を再開した。9月30日、ドイツがポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が開始されるとベネシュはチェコスロバキア亡命政府を設立して、ミュンヘン協定の無効化を目指して動き出した。ヤークシュはイギリスとも接触したが、彼らがズデーテン住民を代表していないとして拒絶された。ベネシュとヤークシュは抵抗運動の一本化のため何度も折衝を重ねたが、ボヘミア・モラヴィアの枠にとらわれない連邦制を構想していたヤークシュに対し、ベネシュは戦前と同じ単一のチェコスロバキア共和国の再現を目指していた。さらに国境線の維持のため、ドイツ人の強制移住をも視野に入れていた。 1940年3月にズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織は、ズデーテン・ドイツ人の自治権を求めるとともに、強制住民交換や移動に反対する「ホルムハースト宣言」を策定した。しかしベネシュとの交渉は難航し、一部の幹部はヤークシュを見限って亡命政府側に合流した。 1941年に独ソ戦が開始され、ソビエト連邦が連合国側に加わった。12月、ソ連指導者ヨシフ・スターリンは戦後構想として、ベッサラビア等の領土要求とともに、東プロイセンやダンツィヒの編入や東部のソ連への割譲を含むポーランド国境の変更、ズデーテンを含むチェコスロバキアの再建を提案した。ソ連の提案はドイツ人居住域からのドイツ人強制移住を前提とするものであり、アメリカやイギリスでもドイツ人移住が本格的に討議されるきっかけとなった。この動きはベネシュ等亡命政府側にとっては好都合であったが、ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織側にとっては自己の存立を脅かされる事態であった。1942年8月5日、イギリスはついにミュンヘン協定の無効を宣言し、亡命政府の目標がひとつ達せられた。以降ベネシュのチェコスロバキア亡命政府はヤークシュ等と関係を断絶し、連邦制は実現性を失った。 1945年2月のヤルタ会談では国境線に関するソ連の要求がほぼ貫徹され、戦後のドイツ人強制移住方針が固まった。
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