井原鑓溝遺跡とは? わかりやすく解説

井原鑓溝遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:08 UTC 版)

伊都国」の記事における「井原鑓溝遺跡」の解説

三雲遺跡周辺に井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)がある。(地元伝えによると、鑓()が土の中から出て来た事から「鑓溝」の小字名がついたらしい)。青柳種信著書古器略考』によれば天明年間1781年 - 1788年)に、この遺跡からは21面の鏡が出土している。拓本からは全て方格規矩四神鏡流雲文、草葉文、波文忍冬文などの縁がある)であることが分かっている。後漢尺で六寸のものが多く王莽新時代から後漢の時代にかけての鏡である。これらの鏡に加え巴形銅器3、鉄刀鉄剣類が発見されているが、細形銅剣銅矛などが出ていない。1974年昭和49年) - 1975年昭和50年)の調査では、この遺跡所在確かめることはできなかった。しかし、甕棺墓であったことは間違いないとされている。

※この「井原鑓溝遺跡」の解説は、「伊都国」の解説の一部です。
「井原鑓溝遺跡」を含む「伊都国」の記事については、「伊都国」の概要を参照ください。

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